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悲しみの乾いた器(「ドミトリーともきんす」ほか感想)

 科学の本をたまに読む。「科学者の書いた本」といった方が正確かもしれない。わたしは装飾的な表現や感情的な文章が少し苦手で、どうにもそういうものは入らないけれど、何か読みたい、というような時にエッセイなんかをつまみ読みする。

 高野文子/著「ドミトリーともきんす」を読んだ。朝永振一郎、牧野冨太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹ら科学者のエッセイを「ともきんす」という寮に彼らが住んでいる、という設定にして、寮生としての彼らに紹介してもらうという形をとったコミックである。科学の知識を知る、ということより、彼らの考えや文章の美しさを紹介する、ということに主眼が置かれている。「学生さん」として書かれる大科学者たちはどこかキュートで(そして美男子で)とても親しみが持てる。

 「あとがき」として、著者がこのような漫画を描いた動機が綴られている。

田中祥子さんという編集者さんがいました。
いつも鞄に自然科学の本を入れている人です。
何冊かお借りして読んで見たところ、
わたしの知っている読書とは違う感じがしました。
小説の読後感とは違うのです。
乾いた涼しい風が吹いてくる読書なのです。

「ドミトリーともきんす」高野文子

『乾いた涼しい風』という感想にはっとした。わたしも、そのように思う。科学の本は乾いている。それってなんなんだろう。

まずは、絵を、気持ちを込めずに描くけいこをしました。
変に聞こえるかもしれませんが、
涼しい風は吹くわけは、ここにありそうなのです。
わたしが漫画を描くときには、
まず、自分の気持ちが一番にありました。
今回は、それを見えないところに仕舞いました。
自分のことから離れて描く、
そういう描き方をしてみようと思いました。

「ドミトリーともきんす」高野文子

『気持ちを込めずに描く』と『涼しい風が吹く』。このことについて、思い当たる節があった。同時期に読んだ雑誌MONKEYの「ローランド・ケルツ インタビュー よいセンテンスとは何か〜英語の場合」というインタビュー記事のヘミングウェイに関して触れた部分だ。(引用中『柴田』は柴田元幸、『ケルツ』はローランド・ケルツ)

柴田 なるほど。で、内面に踏み込まない、というところが後世の書き手たちに一番影響を与えたところなんだろうか。
ケルツ 心に傷やショックを抱えている者が、それを表に出さずに書くための容れ物(ヴィヒクル)を提供した、ということだと思う。日本ではたとえば手塚治虫や水木しげるが提供した容れ物だ。ヘミングウェイ本人も一種の戦争神経症(シェル・ショック)を抱えていた。そして、以前新聞記者をしていて、徹底的に切り詰めて事実に徹した文章を書くことを学んでいたから、感情を排した書き方になった。

「MONKEY vol.31」SWITCH PUBLISHING

 ヘミングウェイ自体はほぼ未読なのだけれど、どうして悲しみを感情を排して書くのかな、ということはたまに思う。何かの悲劇や災害について書かれた記録、あるいはエッセイなどにそういう描写を見かけることがある。「ドミトリーともきんす」にも昭和新山について書かれた中谷宇吉郎の文章(「(昭和新山の噴火は)その力にも闘争や苦悩の色が微塵もなく、それはただ純粋なる力の顕現である。こういう美と力との世界は生を知らぬ世界であり、人の心に天地創造の夢をもたらす世界である。」)について触れたセリフがある。

中谷君が本の中で、
闘争や苦悩の色が微塵もなく、ただ純粋なる力
と、書いているでしょう
戦争が身近に
ある人が書いた
文章だなって
思ったの。
今のわたしには、
戦争ほどの不幸はないけれど、
暗い考えしか浮かばない日もあるわ。
そんなときに、
思い出してみることにしている、一編です。

「ドミトリーともきんす」高野文子

 ここにあるのは①戦争(闘争や苦悩)を知っているが、それに感情的に触れない中谷と②暗い考えしか浮かばない日に中谷の文章を思い出してみることにしている著者、である。「人間の力の及ばない自然のことを思うと些事を忘れる」という解釈もあるだろうけれど、わたしはもう少し違うことを思っている。

 もう一度、MONKEYのインタビュー記事に戻りたい。「アメリカ人は死を受け入れるのが不得手だ」という話題の中でエイミー・ヘンペルの「アル・ジョルスンが眠る墓地で」という短編が引用されている。孫引きになるが引用する。

 チンパンジーのこと、手で話すチンパンジーのことを私は考える。
 実験の進行中に、このチンパンジーは赤ん坊を産んだ。トレーナーたちはきっとさぞワクワクしただろうー母親は促されもしないのに、生まれたばかりの子供に向かって手で語りかけはじめたのだ。
 ベイビー、お乳飲みなさい。
 ベイビー、ボールで遊びなさい。
 そして赤ん坊が死んだとき、母親は亡骸を見下ろして立ち、皺の寄った手が動物の優美さで動き、何度も何度もその言葉を形作った。ベイビーおいでハグしよう、ベイビーおいでハグしよう。チンパンジーはいまや哀しみの言葉も堪能だったのだ。

「MONKEY vol.31」SWITCH PUBLISHING

 インタビュー中ではそういった論は展開されていないけれど、私はこの話の「哀しみの言葉も堪能」というところについて考えてしまう。哀しい、そう判断しているのは誰か、ということだ。これはフィクションの中の話ではあるけれど、それが「哀しみの言葉」であると認識しているのはチンパンジーではない。語り手であり、読者である。

 ごく個人的に「哀しい」と思っていたことが年月がたった時に忘れる、あるいは癒える、ということがたまにある。事柄によっては懐かしかったり、いい思い出になってしまう、というケースもあるだろう。ごく当たり前のことかもしれないけれど、それはすなわち「哀しい」という私の感情が、揺らぎうる主観であって、出来事としての事実ではない、ということだ。「哀しい」は私、しかもその瞬間の私であって、世界の普遍的な事実ではない。世界の普遍の法則を探る科学者の文章が意識的か無意識かは別として、そうした感情を排するような傾向になるのは自明の気がする。
 そして、多分、科学者の文章が「暗い考えしか浮かばない日に」読むような文章であることも、そのあたりに理由があるのかもしれないな、と思う。哀しみを乗り越えることは、時として事実と感情とを分離させることだ。「その事実は哀しい」という一点にとどまっている限り、なかなか人は動けない。哀しみと事実を一旦分離し、外から眺める、そういうことが安らぎになることもあるのではないだろうか。少なくとも私はそう思う。

エッセイ No.089

登場した本

ドミトリーともきんす」高野文子/著 2014年9月 中央公論社

「科学知識を齧りたい」というより「科学者の文章の美しさに触れたい」方向けの漫画です。平凡社のSTANDARD BOOKSのシリーズが好きで、自然科学者の文章に触れるたびに不思議な気持ちになります。(今見たら、STANDARD BOOKSの「刊行に際して」の文章にも「自然科学者が書いた随筆を読むと、頭が涼しくなります」と書かれていますね)漫画の終わりに湯川秀樹の書いた「詩と科学ー子どもたちのためにー」があり、ちょっと泣きそうになりました。

MONKEY vol. 31 特集 読書 柴田元幸(翻訳) 2023年10月 スイッチパブリッシング

「MONKEY」は毎号買っている雑誌です。放っておくと読む本が偏ってくるので、知らない短編が読めるのが嬉しい。翻訳の話題が多くて、ついていけないこともありますが、全然知らない界隈の話を、ほー、と読むのもまた楽しかったりします。

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