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エッセイ 居眠り姫 (尹雄大「親指が行方不明」感想)

 高校生の頃、友人に「居眠り姫」というあだ名をつけられた。残念ながら、あだ名として意味を持っていたのは『姫』ではなく『居眠り』の方だ。つけたのは他の高校の友人だ。(その頃私は演劇部にいて、他の高校の部活と大会の共同運営などをしていた。)なんで私が居眠りしがちと知っているんだ、と非常に驚いた。

 大学生になって、同じ専門課程の友人ができた。体の弱い女性だった。親しくなってあれこれ話すうち、「私とあなたは、教授たちに『体弱い子TOP2』って呼ばれているよ」と言われた。彼女はわかる。なんで私が? 問い詰めると、「授業中にしょっちゅう寝ているから」と言われた。

 そう。私はよく寝ている。実は現在も会社でよく注意を受けている。常に寝不足なわけではない(寝不足で寝ているときももちろんある。)。こいう、体質なのだ。寝ている、というより『気がつくと起きている』が実感に一番近い。
 医者に通ったら、ナルコレプシーという症状だそうだ。


 診断のために記録をつけたので、おおよその周期がわかっている。私は、2時間ごとに強烈に眠くなる。小さい頃からの症状のため、この「眠い」が他人にとってどのくらいの強さなのかは分からない。まず、立っているのは間違いなく辛い。他人の話が冷静に聞けなくなる。眠い、と感じられているならまだいい。気がつくと、その辺で「起きて」いる。寝ている時間は5分から10分くらいであることが多い。

 デス・ストランディングというPlayStation4のゲームに「ハートマン」という研究者が出てくる。このキャラクターは「ビーチ」というあの世とこの世の境のような場所を研究しており、そこに行くために、21分おきに3分間の心臓停止を繰り返す。

 日常生活は21分間サイクル、心臓を復活させるためにAEDを身につけている。彼の書斎は21分以内で楽しめるもので埋め尽くされ、いつ心停止してもいいよう、床はふかふかである。
 私は彼をかっこいいと思った。賞与でフィギアを買うか迷ったほどだ。(幸いにして、そもそも売ってなかった)。ことあるごとに眺めて自分を戒めようと思ったのに。仕方がないので、手帳にイラストを書いた。同僚に見られて、心底恥ずかしい思いをした。

 ハートマンは教えてくれた。眠さと戦うのではなく、眠くなるという前提で活動をすればいいのである。

 2時間おきに居眠ってしまうなら、2時間おきに自主的に仮眠をとる。たった5分、目をつぶるだけだ。我慢して眠い時に活動をしない。こまめに仮眠をするようになってわかったが、私はそれまで日中のほとんどの時間を眠気を我慢することに費やしてきた。授業でも、書類仕事でも、意識が朦朧とする中で行ってきたのである。いつ寝ているか、いつ起きているか境界が曖昧になるのでメモが必須だった。自分の記憶だけでは、それが夢か現実か判別がつかないからだ。

 早寝早起き、適度な運動。これも症状を軽くする。綿密なスケジュール管理。安全に眠るための。「人並みに起きていなくてはならない」という自分の思い込みを外してからは、本当に体が楽になった。

 尹雄大の「親指が行方不明」を読んだ。著者自身の抱える体の不自由さをみつめ、自分の体の内部に宿る他者について考えた本だ。

 書名のとおり、著者はときどき親指が行方不明になる。コップやグラスがうまくつかめない。自分の体なのに。私も、眠気をコントロールすることができない。自分の体なのに。「眠いので、今、眠らせてください」という要求が通る空間は意外と少ない。団体行動ができない、車に乗れない、もちろん授業も1から10まで聞くのは難しい。社会不適合者だな、とずっと悩んできた。生きづらい。著者は自らの「生きづらさ」についてこう書いている。

 それぞれの困難を「生きづらい」という説明に預けてしまうとき、社会化が始まっている。自分の身体で感じていることなのに、みんなと共感できるつらさと地続きになってしまっている。僕はそれを「滑らかにコントロールされた身体」と呼びたい。
 「人とうまく関われない」「何の仕事をやってもうまくいかない」だとか、スムーズに現実が流れていかないときに人生が空転するような虚しさを感じる、こういうときに「生きづらい」と嘆息する。
 だけど、ここで起きているのは生きること自体のつらさではではなくて、世の流れと自分の感覚の隔たりを「つらい」として体感する自分がいるという事実だ。
「親指が行方不明」尹雄大

 ここにあるのは二重のずれだ。
 自分の身体がままならない、自分と体に生じるずれ。

 そのずれが、世間的にわかってもらえない、共感してもらえない、という自分と他者との感覚のずれ。

 なのに「生きづらい」という収まりのいい言葉で、他者にそれを共感してもらおうと思ってしまう、自分はなんなんだろう。著者は言う。

 誰にでもあてはまる一般的な「生きづらい」状態などあるはずなくて、ひとそれぞれの生きづらさがある。
「親指が行方不明」尹雄大

 確かに。誰にでもあてはまる一般的な「生きる」上で「つらい」状態があったとしても、それは「生きづらい」にはならないはずだ。なぜなら、みんなに共感してもらえるから。わかってもらえないから「生きづらい」のである。

 本の後半に、「シラット」というインドネシアの武術についての話が出てくる。「相手に関心を払わない」ことを特徴とした武術だそうだ。著者はここで、武術を通してコミュニケーションについて考える。

 振る舞いに丁寧さがないと感じるとき、僕はそこに馴れ馴れしさを認める。そこで「おや?」と思う。この人はこういうぶしつけさに共感を求めているのだろうか。
 たとえば、相手の手首を捉えて真下に落として投げるといった技で、相手がグイッと掴むといった強引な手つきをしてきたら、それが表している態度の基調は「俺のいうことを聞け」という支配だ。
 もちろん、そんな雑な接し方では技にならないので、こちらの姿勢は崩れない。さらにグリップが強くなってグイグイと力をかけてくる。僕に伝わってくるのは「どうしてわかってくれないんだ」という懇願のメッセージだ。
(中略)
 とっかかりが馴れ馴れしさで、それが通じないとなると命令や懇願に移行する。そのときにそのひとが表しているのは「自分に関心を示して欲しい。示すべきだ」と言ったコミュニケーションのあり方で、それが普段の社会性を生きている身体の層だからだろう。
「親指が行方不明」尹雄大

 思えば、学生の頃の私は、必死に自分の身体に「眠るな」と命令をしていた。いくら懇願しても身体は言うことを聞いてくれなかった。「起きていたい」という心のメッセージは聞き入れられず、ただ自分の身体と戦うためだけに、へとへとになるほどエネルギーを費やし続けていた。

 けれど、「身体は心の思うままにならない」そう理解するだけでどれだけ楽になったことか。一瞬奇妙に思えるかもしれないが、殆どの人がそうであるはずだ。
望んで病気になる人がいるだろうか、あるいは望んで老いる人が。身体はちっとも思い通りになんかならないのだ。

 そして、他人も。
 どうして他人に合わせてずっと起きている必要があるのだろう。少しくらい眠っていたって本当はかまわない。団体行動はしなくていい。車に乗れないから、遠くに行くときは電車で行く。景色が見えるし、本も読めるし、居眠りだってできるしね。

エッセイ005

出てきた本等

「DEATH STRANDING」コジマプロダクション
 Playstation4のゲームです。プレイヤーは「運ぶ」ことによって物語を進めていきます。キャラクターたちは実在の俳優が演じています。私の大好きなマッツ・ミケルセンが出ています。挿入曲もビョークなど豪華メンバーが並びます。サントラ買いました。


「親指が行方不明  心も身体もままならないけど生きてます」尹雄大著 晶文社

著者が自分の思い通りにならない体を見つめながら、心と身体とは何か、またコミュニケーションとは何かについて思索した本です。武道も身体によるコミュニケーションと捉える考え方をとても面白いと感じました。

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