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夜中にハリネズミへの愛を語る(ショートショートではありません)

 トーン・テレヘンの「ハリネズミの願い」という本が、多分好きです。

 「多分好き」というのは、自分は、同族嫌悪をしがちな癖があって、この著者の文章の単純さや、センテンスの短さが好きではない…ような気もするからです。同じ著者に「おじいさんに聞いた話」という掌編集があり

 こっちは間違いなく好きです。大好き。ちゃんと言えます。(ちゃんと言えるということはそれほど好きではないのかもしれない。)帯に少し引用文が乗っています。

「ハッピーエンドのお話はないの?」
「これは、ロシアのお話だからね」

「おじいさんに聞いた話」

 この2行だけでもう、だいぶ好き。
 「おじいさんに聞いた」という、色んな人々の話を集めた短編(ごくごく短い短編)集で、悲惨だったり、理不尽であったりして、それでいて美しい何かがあります。

 語られるお話が実話に近いと、物語は容易に教訓を拒否できます。多分。そこに教訓や、落ち、風刺、あるいは実用的で分かりやすい「読むに足る」何かがなくても、「実話だから」はそれを押し込められる。「おじいさんに聞いた話」の収録作品のいくつかは、誰かに聞いた誰かの人生みたいに、理不尽で、絶望的で、救いのない、あるいは理解しきれない何かを孕んだ終わり方をしています。「こういうことがあって、なんだかわからないけど、心にひかっかるんだ」という話を誰かに聞いているような。「聞いているような」というのは、本の後書きに、この掌編に載っている物語は全部テレヘンの創作で、本当の話はひとつもない、という記述があるからで、本当に驚異的だなと思う。なんて凄い物語作者なんだろう。

 生き物を拒否するような冷たく厳しいロシアの大地、強大で冷酷で美しいロシアの皇帝、革命と亡命の理不尽な運命。一連の物語の背景は私がフィクションでしか知らない物で、それがより強い憧れをかきたてるのだろうと思います。


 一方で、「ハリネズミの願い」には時代背景がない。どこかわからない御伽の国のお話です。出てくるのも、「ハリネズミ」に代表される動物たち。いわゆる動物寓話の形態をとります。単純で読みやすい、平易な文章。…この辺りから、少し拒否反応が出てしまう。


 学生の頃、比較的真面目に勉学をしていました。(ここは本当ですよ。)そこで理解した、数少ないことに「人は自力では言葉を会得しえない」ということがあります。全ての単語、文法、文章の発想は(伝達上で多少の変異は起こるものの)誰かから「もらった」ものです。それ自体は習ったことだけど、実際にそうだと思う。私の言葉は今まで見聞きした言葉とテキストからできている。
 つまり、自分が単純で、平易な文章しか書けないのは、自分が好きでそういう文章ばかり読んできた結果であるに違いないのです。

 そう。だから。ハリネズミ氏は直球どまん中、好みのタイプ。運命の人。多分。

 本自体は2017年の本屋大賞翻訳小説部門に選ばれていて、平積みになっているのを手に取った記憶があります。その時も読んで、ちょっと複雑な気持ちになったと思う。自称読書好きの女子が好みそうな本だよな、とか少し捻くれた感想を持ったはずです。表紙がかわいいのも逆に悪印象という、ひねくれ者の感想の極み。

 もう一度改めて読み直すと、一話一話、「おじいさんに聞いた話」と同じくらい理不尽で突き放す終わり方をしているのが分かります。かわいらしさへの拒否反応でテキストの読みが濁る自分が恥ずかしい。確かに、おんなじ人が書いた文章だよ、と今では思います。

 私は短いお話が好きなくせに、多くの短文作者が求めるであろう、最後のどんでん返しや、風刺、全体を総括するような分かりやすい終わり方があまり好きではありません。読むのも、書くのも。なんていうか、ひとつ嘘をついたような気持ちになるからです。物語そのものが嘘ではあるのですけれど。うまく言えない。テレヘンさんなにかご存じないでしょうか。引用してみます。

 なぜロシアではすべてがふつうとちがっているのか? ぼくがそう訊ねると、祖父は答えずに肩をすくめた。ロシア人は真実に耐えられないのだ、と祖父は言った。ぼくにはどういう意味かわからなかった。ぼくは真実に耐えられただろうか? どうやって真実に耐えるのか? そして、祖父の言う真実とはどのようなものだろうか?〈一足す一は二〉式のことなのか、それとも〈はい、ぼくは缶からクッキーを取りました〉のようなことなのか?
 「だがな」と祖父は言った。「ロシア人は不正直さにも耐えられないんだ。そして、ほかの人たちはそれに耐えられるんだよ」
 どの〈ほかの人たち〉のことを祖父は言っているのだろう? それはぼくのことでもあるのだろうか?
 ロシアでは、正直に嘘をつき、残りの世界では、不正直に真実を話す。ときどき、ぼくには祖父の言うことがまったく完全にわからなかった。

「おじいさんに聞いた話」

 ……ここが近い気がします。そして、確かこの本を初見で読んだ時もこの部分書き写した気がするなあ。(私は、家が本だらけになるのを防ぐため、本を買って、気になるところを全部書き写して、本を売る、という行為を学生時代から繰り返す生活をしています。そして家がノートだらけになるのを防ぐため定期的にノートも捨ててしまい、手元に何も残っていません。何のためにやっているのか、自分でもよく分かりません。)
 何か、わからないことを見出すためにお話を書いていたはずなのに、分かりやすい、定まりの良いオチをつけることによって、書いていた「わからないこと」がどこかに逃げていってしまうような、自分でそれを追いかけるのをやめて、問題から自分自身も逃げてしまうような気持ちがする……のかなあ。なんだろう。そもそもそんなお話が書けたことありますっけ……。

 さっきから、本を売った、と言いながら引用などをしているのは、買い直したからなんです。テレヘンさんの著作を4冊ほど買ってきました。今月はお金に余裕があります。社畜が泣きながら休日出勤した成果であります。もう一回読んで、もしかしたらまた書き写して、売り払って、ノートも捨ててしまうのかもしれないけれど、ちゃんと読み直したいと思いました。

 じっくり読み直して、向き合って、そしたら、そこは歩いてもいい道なんだ、とハリネズミに示してもらえるような気がするんです。(ほら、無理矢理綺麗に終わらせると、少し嘘ついたみたいになるでしょう?)ほんとは、何で読み直したくなったのかもわからない。

 でも、多分、好きなんでしょうね、ハリネズミが。

 ※NNさんのハリネズミ企画に参加しています。生ハリネズミではなくて申し訳ありません。