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エッセイ 備えて備えて備えて備えよ(#仕事について話そう)

 以前、突然の相談業務をお受けしたお客さまと個室で1時間ほどお話をしたことがあり、終わった後に、部屋にその方の匂いが残ってしまって困ったことがあった。
 建物全体の部署が共通で使う応接室な上に、建物のセキュリティの都合でドアを開け放しにできない仕様で、窓もなく、困ってしまって応接室の管理部署に相談をかけた。次に使う部署に迷惑をかけるかもしれないと思ったので。

 当然、どうしてこの匂いが残ってしまったかの話にはなる。私は説明するが、これでよかったのだろうかと思う。いろんな方の話を聞く仕事だ。窓が開かない応接を使っているのは建物にいる以上はちゃんと知っている。消臭剤等の対策をあらかじめ持っていれば、騒ぐようなことはなかったのではないか。

 私の仕事の一部には、地域の人のための無料相談所の業務が含まれる。自分自身が未熟であるせいも手伝って、私の受ける相談業務の大半は「高度な技術や知識を紹介する」ことではなく「相手の話を聞く」ことで解決するタイプのものだ。(高度な知識や技術のアドバイスが必要と判断される業務は上司など他のものが担当する)。相談分野が限られるとはいえ、見知らぬ方の話を聞くのは結構大変、だと思う。お互い、何をわかっていて、何をわかっていないのかよく知らないから、まずはそこから始めないといけない。ただでさえ、相談に来たお客さまは、私がなんでも知っているのだと思っていらっしゃる場合が多く、その時点でもう齟齬が生じてしまっていると言っていい。

 業界のこと、専門技術のこと、雇用される側の悩み、雇用する側の悩み、あるいは家族がいるとはどんなことか、ほとんどのことを私は知らない。予約をきちんと取ってくださった場合は下調べはするが、それでも、「その人が何を話そうとしているか」を把握することすら、わたしにはとても難しい。(きっとわたしの社交性が低いせいもある)。

「ありがとうございました」
 そう言って帰ってくださっても、終わってからひたすら考える。
 わたしは、今の人に真摯に対応できただろうか。先入観なしに話を聞けただろうか。自分で勝手なジャッジをせず、相談者にとって有益な方向が見出せるよう、話を開かせ、整理し、勇気づけることができただろうか。

「壁打ち」と上司は言う。自分の意思を再確認したり、アイディア出しをしたりするために話を聞く仕事を「壁打ち相手になる」と呼んでいるのだ。わたしの壁は、薄く、狭い。ともすればボールを外してしまう。直前の下調べは弱いところに突貫のネットを張っておくようなもので、実際のところ、ちょっとずつ毎日壁を継ぎ足していくしか、大きな壁になる手段はないのだと思う。「ああこれ意味あるのかな」「嫌になるなあ」と呟きながら、毎日少しずつぼろぼろ崩れる壁を継ぎ足すようなことをしている。

 わたしは、元来本好きなことも手伝って(あるいは災いして)、知識面での壁を広げることばかりしてきた。他はそっぽを向いてしまった、と言ってもいいかもしれない。たとえば、清潔感のある身なりだとか、挨拶を大きな声でするだとか、そういったことが苦手で、また、直すのが後優先で、後ろ向きになりがちだった。

 時折、そうしたことを気にかけるお客さまも当然いるわけで、苦言を呈される時もある。そんな時は、落ち込んだり、「こんなに頑張っているのにな」と殻に籠ったりしてしまっていた。

 でも、最近、ようやく、とつけてしまっていいだろう勤務年数になってしまった最近になって、少し前向きに考えるようになった。「こんなに頑張っているのにな」では意味がないのだ。「こんなに頑張っている」ことが役に立つように、他のことをしておかなくてはならない。苦言を呈されるのにがっかりするより、そもそも苦言を呈されないように備えておくことが必要なのだろう。

 冒頭の話に戻るのだけれど、「困ったな」と思う自分は被害者のような気持ちで、でもそれは何も解決できない人でもある。良し悪しというより、仕事でやるなら、私は被害者であってはいけなかったのだと思う。仕事とは、人の役に立つことで成り立つものだ。考えなければ、価値はもたらされない。困った、と立ち尽くすのはやめて、困らないように備えるのが、多分仕事というものだ。

 ずいぶんぼんやりとした自分だ。きっと高い目標なのだろうけれど。それでも、ゆっくりでも、何かのために考え、備えて、それでだめなら更に備えて(わたしはうっかりものだから、これできっと人並みぐらい)、難しいときのためにもうひと備えして、そうやって、だんだんと、誰かの役に立てる自分になっていきたい。本当に、少しずつでもいいから。

エッセイ No.109

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