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カブの旅 第19話「転倒」

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 死の間際に世界はスローモーションになる——。
 よく言われるその説が正しいのだとしたら。
 僕はあの時、死の間際にはいなかったことになる。
 その刹那、世界は滞りなく、まったくもっていつもの速度で進み。
 僕とカブをあっけなく転がした。

  *

(まずいぞ——)
 珍しく余裕のないカブの声が聞こえたと同時に、僕はこの上なく戦慄した。
 定義山からの帰りの山道、ややきつめの右カーブを曲がる最中に対向車が現れたため、ついその圧力から逃れようと車道の左側に寄ろうとし、思わず、迂闊にもブレーキをきゅっとかけてしまった。さらに悪いことに、ちょうどそこは雪解け水で濡れている路面だった。
 瞬間、尻の下でずるりとタイヤが不快に滑った。
 初めてのスリップに、車体はもちろん精神のコントロールも完全に——心情的には死神あたりに——もっていかれた。
 次に何をすればいいかわからなくなった。
 ブレーキをかけるか。かけるとしたら前か後ろか。どちらもか。あるいはハンドルを切るか。切るとしたらどちらへ——どれを選択しても間違いな、地獄な気がして動けなかった。
 立て直せない——そう悟り、心臓が飛び跳ね、緊張が全身を走る。
 そうしている間にも曲がることを忘れたカブはカーブを直進していく。
 そんな中——
(——まったく、だから大丈夫じゃないぞと言っただろうが)
 ——はあ?
 ……何を言っているんだこいつは。
 こんな非常時に話しかけるカブがどこにいる?
 まあ、人語を話すカブ自体普通いないんだけど。
(まあいい。滑ってしまったものは仕方ない。肝心なのはこのあとどうするかだ)
 待て待て。だからそんな会話している場合じゃないんだって。
(その1。ハンドルを切る、あるいは車体を傾けてコーナーのクリアを目指す)
 それは無理だ。絶対こける。だってグリップが効いている気が全くしない。
(その2。ブレーキをかけて止まる)
 現在進行形で滑り続けているのにブレーキをかけてどうする。さらにバランスを崩して転ぶのがオチだ。
(その3。何もせずこのまま車道をはみ出し、山の中に突っ込む)
 視線の先には蓋のない側溝と、木々が散見する壁のような山肌。つまり待ち受けるのは山の斜面との衝突事故。
 ……どうする? どうするのが最も被害が少ない?
 コントロールを失ったカブは、このままではいずれ転倒する。
 僕に選べるのは、アスファルトの上でこけるか土の上でこけるかくらいだ。
 それなら——
(——残念だが、時間切れだ)
 時はやはり容赦なく進む。
 結局は何もせず、というか何もできないまま、僕とカブはカーブを曲がりきれず、側溝を飛び越えて山に乗り上げ、ぐしゃりと転倒して止まった。

  *

 もちろん、リアタイヤが滑ってから転倒までの間に、こうもいろいろ考えられたわけではなく、カブと話をしていたわけでもない。これらはあとから思い返してみて、なんとなくそんなことを思っていたような気がするな、といった程度の曖昧な記憶を文字に起こしてみただけにすぎない。

 今回の事故について、結論を述べれば、ひとえに僕の認識不足が原因なのだろう。
 まず曲がっている最中にブレーキをかけるようなことにならないよう、カーブの手前で十分に減速しておく。その基本の認識を疎かにしていた。
 またそれ以前に、道路が濡れていたことに気付いたのなら、尚更速度を落とすべきだった。ウェットな路面の危険さの認識が不足していた。
 そして、タイヤをはじめとするカブの装備の認識も甘かった。あとから調べてわかったことだけど、カブのノーマルタイヤはビジネス向けのもので、耐久性は良くてもグリップはさほどではないものらしい。ブレーキの効きもそうだが、基本的に市街地仕様のカブで山道を走るのなら、もっと慎重になるべきだった。
 何より、バイクは一瞬のミスが命取りとなる乗り物だという認識が欠けていた。
 ゆえにこの件は、起きるべくして起きた失敗だったのかもしれない。

 幸い怪我は肩を打った程度で、首筋を痛めただけで済んだ。どうも倒れた場所が湿った草むらだったおかげみたいだ。半ば無意識ではあったが、アスファルト上で転倒するのを嫌ったことがよかったらしい。
 カブの方も無事だった。外傷はほぼなく、エンジンがつかなくなることも、どこかのパーツが破損することもなかった。レッグシールドやステップが転倒時にいい具合にガードになってくれたみたいだ。その後の帰り道でも、まったく問題なく走ることができた。図らずもカブの耐久性の良さを証明してしまった。

 しかし、僕の不注意でカブに迷惑をかけてしまったのは確かだ。
 労るようにカブを走らせつつ、僕は頭を下げた。
 首筋がめちゃくちゃ痛かった。
「ごめん、本当に」
(なに、問題ない。バイクは転ぶものだからな。それより、主が無事で何よりだ)
「……おまえって、いい奴だったんだな」
 というか。
 いいカブだったんだな。
 今回の件を教訓にして、僕もいいカブ主になろうと思った。

その分活字を取り込んで吐き出します。