スクリーンショット_2019-02-10_16

カブの旅 第15話「渡りカブ」

※目次はこちら

 朝起きて、見慣れない天井に驚くことはもうほとんどない。あれ、今僕どこいるんだっけ? と寝ぼけた頭で思い出そうとし、まあ別にどこでもいいかと諦めかけた頃になって、ああそういえばここだったな、と気付くことの方が多いくらいだ。
 二段ベッドの下側から抜け出して、上段側を覗く。ここ数日相部屋の相方となっていた台湾人の青年の姿はなかった。片言ながら日本語を話せたので、いくつか会話をしたが、僕が持っている台湾の知識が陽岱鋼と自転車メーカーのGIANTくらいだったため、あまり話は広がらなかった。ちなみに彼の愛車はCOLNAGOだった。僕は彼に二段ベッドの上段を譲った。
 共同のシャワールームで水をかぶり、身支度をして、ロビーに向かう。ちらほらいる顔見知りの長期宿泊者と、「おはす」「ざす」みたいな、別に敬意を払う必要も無下にする理由もない、つまりは利害関係のない相手にする適当な挨拶を交わしていく。
 飲食可能な喫茶ルームに入り、いつものソファーに座ってスマホと地元紙をチェックしつつ、カロリーメイトをコーヒーで流し込む。
 そうこうしているうちに午前9時になる。平日なら株式市場が開く時間だが、今日は休日なので休みだ。小説やnoteは夜に書くから、よって日中は特にすることはなく、つまり今日は移動日だった。
 さて、次はどこに行こうか——

  *

 僕が日本を北から南へ、あるいは南から北へ渡り歩く日々を送るようになったのは、何回か前の冬の頭頃に、カブが唐突に放ったこんな告白が始まりだった。
(実は私は、渡りカブなんだ)
「わたり……何だって?」
(渡りカブ。渡り鳥ならぬ、な。暑い時期は涼しいところに行き、寒い時期は暖かいところに渡り歩く、もとい渡り走るカブのことを、渡りカブというんだ)
「へえ、そんなカブもいるんだ」
 喋るカブがこうしているのだから、渡りカブがいてもおかしくはない。
「ん? じゃあ、もしかしてそろそろどこかに行くのか?」
(そうだ。本格的に寒くなる前に、暖かい土地に行かなければならない)
「へえ、そうなんだ。がんばってな」
(何を他人事みたいにしているのだ? 主も行くのだぞ)
「え、なんで」
(なぜって、運転手がいなくてどうする。別に私だけで行ってもいいが、そうすると無人のカブが走っているとたちまち噂になり、捕まってきっと廃棄されるぞ。それでもいいのか)
「いや、それは困るな」
 せっかく買った、僕の大切な初バイクなのに。
「でも、僕には仕事が」
(何とかなるだろ)
「いや、何とかは……なるかも」
 小説をはじめとして、収入は少ないながらも、今では完全に自由業として働いていた。貯金もまあ少しはある。やってやれないことはなかった。
(ほらみろ。では行くぞ。明日行くぞ)
「いや明日はさすがに無理だって」
 と言いつつも、僕はいそいそと着替えやらガジェットやらをリュックに詰め込み始めた。
 何だかんだ言って、僕はカブと行く本格的な旅が楽しみでならなかった。

  *

 それから僕とカブは、四季移ろう日本列島を、バイクで走るにちょうどいい気候の土地を求めて、ふらふらと渡り走った。朝起きて身支度をして一息ついてから、ようやくその日の目的地を決めて走り出したり、あるいはその地に留まってカブついたりする。たまにはバイク屋でカブを診てもらいもする。宿泊場所はゲストハウスなどの安宿を選び、夜は何かを書いて過ごす。
 そんな放浪の旅をいつかしてみたかったので、あの時のカブの告白は渡りに船、というか渡りにカブだったというわけだ。
 そして今日もまた、旅が始まる。
「そろそろ暑くなってきたから、やっぱり北か?」」
 喫茶ルームの全面ガラスの向こう側には、物干し竿や花壇が置いてある庶民的な庭があったが、そこはすでに存分に日差しが入ってきていて眩しく、夏の到来を予感させた。
(まあそうだな。それより主よ)
 ゲストハウスの表の駐輪場に駐めていたカブが、今日初めて語りかけてくる。
「何?」
(主よっ)
「何だよ」
(主よ! 起きろ!)

「——え?」

 カブに怒鳴られた僕は、畳に横になって目を開けていた。
 視界には見慣れた部屋の——自室の風景があった。
 石油ストーブでぽかぽかの部屋で、毛布にくるまって横になりながら、しばらくの間、今まで見ていたものは何だったのかと考える。
 考えるまでもなく、それは夢だった。
 夢オチだった。
 渡りカブだって? そんなカブがいてもおかしくないって?
 いやおかしい。いるわけがない。そんな存在を素直に受け入れている時点で夢だと気付くべきだった。
(やっと起きたか。もう昼だぞ)
 カブに起こされなければ、今も僕はどこかでジプシーしていたのかもしれない。
(今日は快晴だ。どこかへ行こう)
「いや無理。晴れてるけど、気温1度は無理」
 今週末は日本列島に寒波が来ていた。仙台も雪こそ降らないものの、気温は終始1度前後と、バイクに乗るには厳しい寒さが続いていた。そのためしばらくカブついていなかった。あんな夢を見たのはそのせいかもしれない。
 でも、悪くない夢だった。
 いつか正夢にしてみたいな、と思うくらいには。
「なあ、渡りカブって知ってるか?」
(何だ突然)
「知らないよな。ごめん、何でもない」
(いや、知ってるぞ。実はな——)
「え、待って、ちょっと待って」
 僕は思わず古典的にも頬をつねった。

その分活字を取り込んで吐き出します。