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失われゆくタモリみ

笑っていいとも、タモリ倶楽部が終わり、その空虚を補填する役割を果たしていた感のある番組、ブラタモリのレギュラー放送も終了するとのこと。
皆んなの、我らのタモさんは確実に"店じまい"している。

とても寂しく思う反面、それらの番組を欠かさず見るほどに熱心に追っていたかと問われれば、否である。
例えば、笑っていいともならば、そもそもがその時間帯に見られるような生活リズムではなかったし、かと言って録画もせず、なんなら日曜の増刊号ですら見たり見なかったり。
そしてブラタモリに至っては、その視聴回数はおそらく十指にも満たないという始末。
だが、寂しい気持ちは決して、嘘ではない。

でも、このようなある種の勝手、ワガママな感情って、"あるある"とも思う。

およそ35年ほど前、幼少の頃に家の近く、徒歩5分ほどの場所に"ファミリーマート"が出来た。
東京23区で田舎の部類に入れられる地域に住む私たち家族は、少し浮き足立ち、自ずと買い物のスタイルも変化する。

それまでは、そのファミマとの中間地点に位置する「マルコシ」という、老夫婦が営む"商店"を利用していた。
地域によって違うだろうが、コンビニ、あるいはスーパーなどが入る以前は、"商店"、"ストアー"といったものが、そこを担っていたように思う。

祖母や母に連れられて行った、物心ついた頃の記憶がある。
お遣いを頼まれ、初めて一人で買い物をしたのも、その店だったと思う。
商店といっても、それぞれで扱う物、形態も異なり、一括りには出来ない。
そのお店は、パン、牛乳、お菓子ならびにアイス、野菜果物も置いてあったか、洗剤の類いもあった気がするが、いかんせん、純然たる子供であったため、お菓子、アイス欄以外を視線に捉えることは難く、その実際の品揃えは不明である。

消費税が導入された当初はそのシステムに慣れず、何度かうっかり、その定価の分だけを握り締めて行ってしまったが、当たり前のようにオマケしてくれた。
消費税、もしくは税の何たるやなど当然、理解していないから、あるいはお店が勝手に値上げをしたくらいの解釈をしていたかもしれない。
そうなると、あの時きちんと礼を言えていただろうかと、少し心配であり、心残りでもある。

お小遣いを貰えばそこへ行く、行くためにお小遣いを貰う、そんな場所。
身内以外で、初めて関わりを持った、認識したような存在かもしれない。
内気な私に、適度な距離感で、にこやかに接してくれていた。

後に誕生したファミリーマートであるが、そこへ行くには、マルコシの前を通ることとなる。
マルコシは間口の開けた小さな店であるから、通行人との距離が近い。
行きは良いとして、問題は帰りである。
コンビニ袋をぶら下げているのが目に入ってしまったら、気まずいし、心苦しい。
しかし当初、私にはそのデリカシーが備わっていなかったのだが、ある日のファミマの帰り道、無防備に袋を持っていたのを母に注意され、そういうことを理解する。
後に、少し回る感じになるのだが、もう一つのルートを使うようになった。

次第に間隔が空いてくると、何となく行きづらさを覚え、頻度も減り、フェードアウトしていく。
中学へ上がる頃には、行くことは完全に無くなっていた。

数年して、おばあさんが亡くなり、その後はおじいさん一人で切り盛りしていた様子であった。
配達の自転車を走らせる姿も、たびたび見かけた。
さほど勉強も運動もせず、かと言って遊びも中途半端で、無駄に青春を浪費していた青年期を過ごしていた私は、そんな勤労者のおじいさんを見かけると、どこか後ろめたい気持ちを覚えた。

いつまで営業していただろうか。
私が20歳を過ぎた頃も続けていたように記憶する。
夜、シャッターが降ろされた閉店後の店の前を通ることがあった。
おそらく店舗の上階が住まいだったと思われる。
その窓から灯りが確認できると、テレビでも見ながら食事されているのかな、とか、あるいは暗ければ、休まれているのかなと、そんな勝手なことを思いながら、帰路につく。

営業している店の様子も、その姿を見ることもすっかりなくなり、ひょっとしたら二度と、その機会はないのかもしれないと、そこまでは考えていなかったが、特に意識せずに、そのままの日常を送っていれば当然、そうなってしまう。
そして実際、そうであった。

おそらく、特別に何か知らせるでもなく、徐々に、ひっそりと店を閉じたのではなかろうか。

最終回があれば、行きたかった。

もう全然関わりがなく、縁遠いが、その存在だけはちょこちょこと確認する。
在るということを感じられさえすれば、それだけで安心するし、在って当たり前。

私にとってマルコシは、かつての"笑っていいとも"的な存在だったように思う。
すると、おじいさんは"さながら"タモリといったところか。

さして追ってもいないのに、無くなると聞くと寂しいという、何とも勝手な、この感情。

でも、皆それぞれの笑っていいとも、あるいはタモリ倶楽部、ブラタモリがあって、そしてタモリ的存在がいて、でも、年を経るごとに、そうしたそれぞれの"タモリみ"を失っていくのだろう。

もっとも、Mステこそ「ザ・タモリだ!」という人も当然いるだろう、か?

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