野球選手とは事務作業員である

野球は「手続き」のスポーツだ。

たとえば、アウト三つでイニング終了。これは上長から印鑑をもらわないと受理されない事務書類のようなものだ。所定の欄に、然るべき担当者から印をもらう。審判からアウトのコールを三つもらう。

攻撃にしても、1塁の次は2塁、そして3塁、ホームと、スタンプラリーのように各塁を踏むことで「1点」が認められる。所定の手続きによって承認される得点を競い合う。どちらがより「手続きを滞りなく数多く遂行できたか」を争う。それはオフィスワーカーが事務能力を競い合うようなものである(野球部卒が求職で重宝される理由もこの点を無視しては議論できないだろう)。


優秀な野球選手とは、優秀な事務作業員である。


ところで、手続きは直接的な衝突を遅延させる。手続きは「遅延」と本質的に関わっている。どういうことか。

殴り合おうとしている二人がいたとする。直接的な暴力が交わされる局面だ。ここで、「ジャンケンで勝った方が相手を殴ることにしよう」と提案されたとする。「ジャンケン」という「手続き」が一つ、殴り合いの前に設定されたことになる。さらにそこで「じゃんけんで勝った方があっち向いてホイの権利を得て、あっち向いてホイで勝ったら相手を殴る」ことになれば、ジャンケンとあっち向いてホイの二つの手続きが暴力の前に「噛まされる」ことになる。二つの手続きが完了するまでの間、暴力の行使は先送りされる。暴力が「遅延」されるのだ。手続きには、暴力を、直接的な接触を、遅延させる働きがある。

あらゆる対戦競技にはルールがあり手続きがあり、この「暴力の遅延」の側面がある。その中でも野球は、手続きを高度に複雑化させ、「遅延」がよりその本質となる競技である。野球とは「複雑な事務手続き」であり、「遅延」のスポーツだ。

だから野球は「モタモタ」している。手続きの連続だから時間がかかる。物理的に決着が遅延されている。3時間以上かかってしまうし、それができてしまう(野球の祖先とされるクリケットに至っては勝負が決するまでに何日もかかる)。二者がなんらかの仕方で勝ち負けを争うときに、ボクシングで直接的に殴り合えば1ラウンド3分で決着がつきうるものを、ここまで引き伸ばす。良くも悪くも、それが野球の本質なのだ。

ときおり起こる乱闘シーンへの興奮は、手続きの連続としての「戦いごっこ」をしている最中に、蓋をしていたはずの剥き出しの「戦いそのもの」が姿を表すことでもたらされる。「遅延」させていた暴力による応酬。回りくどい手続きの連続で競わされる「焦らし」からの解放。「遅延ゼロ」の殴り合い。

野球の儀礼的な「遅延」に対しての耐性、感度を養う難しさが、野球の普及しにくさにもおそらく関わっている。「手続き」の鑑賞へのリテラシーの問題。

とはいえ、その本質からして野球は、門戸を広い人に開きうるスポーツなのだと思う。「手続き」さえ遂行できればアスリート的に身体能力が優れていなくても優秀たり得るし、弱小高でも番狂せを起こせる。身体能力の卓越を直接的に測り、競う陸上競技とはその点で決定的に異なるし、それを主要とするオリンピックのような大会とは本来馴染まない。100メートル走の金メダルと野球の金メダルは、意味が全く違ってしまう。

民主主義と手続き。手続きは平等性と関わっている。然るべき手続きを踏めば誰でもある権利を得る。特権を認めず、等しく手続きを踏ませる。特権の「直接性」を遅延させる。生得的な身体、階層の優位性を無化させるための手続き。法律、裁判、選挙。野球もこれらのことと関わっている。野球と民主主義。

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ところで、生活においてなんらかの「手続き」にこだわっているとき(最近言われるところの「ルーティン」)、そこには何かを「遅延」させたいという欲望があるのではないかと考えてみる必要がある。そんな「ルーティン」なんか吹っ飛ばして、「すぐやってしまう」ことがあっていい、ということを考えるのだ。

とりあえずコーヒー淹れて、とか、まず部屋を掃除して、とか、そういう「段取り」で何を遅らせようとしているか。生活が手続き的になり過ぎているとき、そのことを点検する必要がある。テスト前の掃除なんかはベタな逃避として周知だが、ほかにも本当はいらない「ルーティン」は存外に多い。

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