比べないで作る

星野源と若林正恭の対談番組である、Netflix『LIGHT HOUSE』を観た。

オードリー若林は、体育会的な競争意識を生きていたのだと思う。それは他者と自分を比べるという苦しみ、自分の作品を自分の作品と比べるという苦しみを生んでいる。南海キャンディーズの山ちゃんが嫉妬をまだ燃料にしているという話もそうで、他者と同じトラックを走る中で他者を妬み、それをモチベーションにするというのは体育会的な発想だ。その意味で、山ちゃんは一貫して体育会的に突っ走れている人ということになる。それを横目に、若林は自分がそうできないことに悩んでいた。体育会的な競争精神をベースに走ってきたが、どうやらそれが限界にきた。また別の競争相手やトラックを見つけるべきなのだろうか。それはどこにあるのか。それを悩んでいた。

2019年の武道館ライブで披露した「イタコ」のネタ以上のネタが作れる気がしないという話もそうだ。一つの物差しの上に単線的に作品が位置付けられ、クオリティがその基準でランクづけされる。作品同士の優劣が一つの基準で測られる。

自分を競争させ、自分の作品をも競争させていた。その限界を乗り越えるには。

「春日を生かすネタ」という基準がネタづくりにおいて重要である限り、その基準でネタを評価するのはしょうがないのかもしれないが、もっと複数の基準を意識して、というか基準など置かずにネタづくりをしてしまえばいいのにと思った。

実際、星野源は若林のその悩みを受けて、自分が複数のベクトルで作品作りをしているという話を展開した。一つ一つの作品が「それはそれ」として、単一の軸で優劣をつけられることなく並列する。

一つの評価軸で物事の優劣をつけようとする発想もまた体育会的というか、男性的なものだと感じる。点数をとった方が勝ち、力の強い方が勝ち、早くゴールにたどり着いた方が勝ち…。作品をトラックに並べ「競争」させるという発想。そもそもそれぞれが質的に異なる作品としてそれぞれの価値を志向して存在しているという発想が、創作においては欠かせないと思う。

それは、個々人の人生が年収や職業などの単一の軸で優劣をつけられるべきでないことと同じである。人がそれぞれ比較不可能な形でユニークな価値を生きうるのと同じように、作品それぞれをユニークな存在としてみなすこと。それが若林に対して星野が示した処方箋である。

そして若林は、東京ドームライブというユニークな夢を見つけ、「オードリーらしいことをする」という唯一無二の指針に行き着いた。

本日、東京ドームライブ。

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