人が目的を訊くとき

学問には「突き詰めたい真理」みたいな大目的があると思われているようで、「それは結局何がゴールなんですか」という質問をされることが最近立て続けにあり、知見それ自体を面白がるという学問の自己目的性についてもっと話した方がいいのかなと感じる。

相手のやっていることに対して「目的はなんですか」と訊くのは、至極真っ当な感覚ではある。そして学問には特にそういう目的志向性が想定されているらしい。とはいえ、なにか具体的なトピックについて話したときに、その面白さではなく目的に反応される時点で、その会話には限界がある。それはもう「理解できない趣味」への反応と一緒だから。

それを面白がることが直感的にわかることに対して、人はその目的を聞かない。面白がることへの共感ができないときに、「次の受け入れ方」として、その行為の合目的性が問われる。何か道具的な意味があるということならそういうものとして引き受けられる。

けど本当は、面白さが伝われば、それってこういう話とも関係しますよね、と、結果的にさまざまな目的性との接続が連想できるわけで、会話をしながらその回路を敷設できるのが一番いい。

最終的には個々人のどうしようもない感性の違いには行き着くが、それでも、自分がそれを面白がっているポイントは何かということはもっと説明可能な形で反省しておく必要はあるのだと思う。自分の面白がり方を省みることは存外に少ない。

それ調べてなんなの、というのは、業界内部にいると勝手に色々みんなが解釈してくれて聞かれることがない点で、外部の人から素朴にそれを問われて虚をつかれてしまった部分がある。改めて自分の興味の源を整理しておいた方がいいなと思う。

目的のなさを含めた目的性を共有できているコミュニティにいると快適なんだけど、その前提を共有していない外から見ると動機がよくわからないことをしているように見えるということを意識することは大事なのだと思う。

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