ヤンキーと時間

床屋で髪を切ってもらった。あまり形を変えるつもりがなかったので、速さが売りのチェーンの床屋で済ませることにした。1センチくらい短くしてもらい、量も減らしてもらった。

担当の理容師は自分より年下の男で、愛想がいいという感じではない。作業が始まると、その手つきからゆったりとした印象を受ける。客が入店したときに発する「いらっしゃいませ」もどこか間延びした口調で、回転率が重要であるだろう店のスタイルにはそぐわないマイペースさを発揮しているように見えた。

よく見ると、左耳にはピアスがある。いまどき、ピアスをしているというだけでその人の何事かを推し量るのはナンセンスだろうが、そのゆったりとした振る舞いと引き合わせて、俺はその男から「ヤンキー性」を感じた。

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2000年のドラマ「池袋ウエストゲートパーク」を最近見た。そこでカラーギャングのボスとして君臨するのは、窪塚洋介演じるタカシである。タカシは、もったいぶった口調、ゆったりとした動きでグネグネと固有の時間を保持している。そういう人物が、ヤンキーのトップとして描かれている。

大きく言って、ヤンキーはもたもたしている。ヤンキーとは「遅い」存在である。

ヤンキーは、基本的にもたもたしていて返事も遅くて髪も長くて言葉も間延びしている。ヤンキーはあらゆることにせかせかしていない。先生の問いかけに速やかにキビキビと対応するのはヤンキーの対極にいる「優等生」的人物であることからもそれがわかると思う。

ヤンキーは学校教育的、部活的合理性で削ぎ落とされようとする余剰的な「時間」を体現する存在なのだと思う。

学校教育における管理。それは生徒が持っている固有の時間感覚や主体性を画一的なカリキュラムによって刈り取っていき、管理しやすい個体として「成形」することである。そのための具体的実践が、たとえば「前ならえ」であり「時間割」である。

管理者にとって、それぞれが固有の時間を生きていては困る。「マイペース」にやられたら管理できない。時間を管理することで、相手を管理する。

ヤンキーが抵抗しているのは、そうした管理に対してである。あらゆる個人的な余剰を刈り取り、管理を容易にする個体へと「教育」することへの抵抗。それがヤンキーの長い髪であり、間延びした返事である。

人が「せかせか」せず、あるいは「だらだら」と、自分の時間を生きること。それはいまや「贅沢」な実践になった。ヤンキーは「贅沢」な存在だった。それが減っているとしたら、それは社会の余裕のなさの表れであり、「貧しさ」の反映でもあるだろう。

無駄のない合理的な「キビキビした」存在であることを要求される社会のなかで、いかに自分の時間を守るか。その「贅沢」を手放さないか。コーヒーを飲みながらその苦味をただ感じること。海を見ながらぼーっとすること。その贅沢を、その「遅さ」を、いかに生活のなかで実践するか。それは生活のなかでいかに「ヤンキー」であるかということである。そのことを意識してしすぎることはない。

ヤンキーは、もてあましている時間をただ時間として体現している。

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