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崖の向こう

飽きるというのは、一種の自己防衛なのだと思う。それによって、のめり込みすぎるときに起こる自己破壊を防ぐ。自分はその反応が出やすいので、危ないゾーンに行く手前ですぐ引き返すように飽きる。

自分が学問に魅了されながらもその実践から逃げがちでもあるのは——つまり日々サボりがちであるのは——物事の本質への志向が自分を危うくするという本能的な恐れがブレーキをかけているからだと感じる。本質的なことの探求には、いまの「普通さ」を部分的にも壊す必要が出てくる。それを直感しているがために、その手前で足を止めている。

本当は「怖い」のだが、自分を踏みとどまらせるための反応として「飽きた」や「つまらない」という印象を対象に持たせる。そういうことがあるように思う。本当に危うくなる手前まで、自分はもう少し行ってみていいのだと思う。まだまだ崖は遠い。

もうこれ以上行ったら落ちてしまう、引き返せない。そのギリギリで顔を下にのぞかせ、切り立った崖にしぶきを上げる海を見る。崖というイメージは、みうらじゅんがNHKの「最後の講義」で話していた喩えからの連想だ。

みうらじゅんは様々なアイテムを収集しているが、本物のマニアになる「一歩手前」で引き返すことを心がけているという。それはレコードマニアが同じレコードの型番違いを集め出すことへのノラなさとして語られていた。そこまでやり出すと、完全に「やばい世界」に突入している。それは「崖の向こう」だ。その手前で引き返す。ただ、その手前までは行ってみる。そのキワを見極める。

まだまだ自分は崖の手前にいる。「やばい世界」の波が打ちつける音も聞こえていない。もっと進んでいい。もっと本質に向き合っていい。

さらに言えば、たとえ「崖の向こう」に行ったとしても、戻ってこれる。それが千葉雅也『勉強の哲学』で示された「来るべきバカ」である。かつてのノリにノッたり降りたりできる主体。それが勉強の第三段階の最終形態である。

自分はまだまだ勉強で「キモくなる」のを恐れている。同書で言えば、自分はまだ勉強の第二段階にも至っていないということだ。

キモくなっていいし、その先でまた帰ってこられる。それを認めるということは、「自分が変わってもいい」ということを引き受けるということである。「キモくなりたくない」というのはつまり、「今の自分を変えたくない」ということだ。それは真っ当な感覚だし、無理に変えなくていいのだと思う。けど何事かの本質を考えたいと思うなら、勉強が必要であり、キモくなることは避けては通れない。それを体の底ではまだ引き受けきれていないのだと思う。無意識にも、自分は自分が変わることをすごく恐れている。

もっと本質に向かっていいのだと、恐れをいくぶん解除できれば、自分はもっとできると感じる。自分はまだまだ変わってしまっても大丈夫だと思えるかどうか。

自分のことを愛してやまない人に学問はできないし、その必要もないのだと思う。どこかで今の自分を嫌いでないと——今の自分を不満に思っていないと——勉強はできない。自分が変わってしまっていいと思えていないと、勉強はできない。

変わり尽くした先にそれでも残る「自分」の姿を見たいと思っている、その自分の求めに、もっと応えたいと思う。べんきょしよ。


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