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表面と根源

サーファーの友人に誘われて、茅ヶ崎で行われた「横乗日本映画祭」に行った。サーフィン、スケボー、スノボーといった、板を使って体を横向きに移動するアクティビティを題材にした映像の祭典。

映画館には、「横乗り」に親しむ人たちが集まっているようで、「横」にも「乗り」にも縁遠いのは俺くらいだったと思う。唯一の横乗りは電車くらいだと、友人と笑って話した。

映画は3本上映され、そのどれもが「横乗り」の速度と技芸を存分に表現していた。どの作品でも登場人物が内面的なことを語る場面などは一つもなく、ただひたすらに「横乗り」の滑走シーンがダイジェストされている。BSなんかで放送されていたら、とりあえずつけておいてBGVにするだろうなとか、そんなことを思った。横乗りカルチャーにおける映像作りのスタンダードがわかるようだった。

異文化たる横乗り映像を2時間ひたすら見ながら、俺は「横乗り」とは一体なんなのかと考えることになった。

「横乗り」について、映画祭の冒頭では「板乗り」とも表現されていた。横乗り、すなわち板乗り。板に乗ることで、横に乗ることができる。

では、板とは何か。そう考えてみたときに言えるのは、「我々は常に板に乗っている」ということである。

今それぞれの人が着地している床、地面、アスファルト。これらは、言ってみれば「巨大な板」である。アスファルトにせよ、フローリングにせよ、畦道にせよ、ある無限ではない厚さをもっていて、平たい。その意味でどの地面も「すごく幅の広い板」である。

そう極端に考えてみたとき、「板乗り」と呼ばれるサーファーやスケーターが乗っている「板」とは何か。それは、普段我々が乗っている広大な「板」を足の幅と肩幅ほどまでに縮減してみせたものであると言える。地表という果てしない「板」を人が乗れる最小限まで削り出したもの。それがサーフボードでありスケートボードでありスノーボードである。

板とは、削り出された地表である。つまり、削り出された地球の「表面」である。

木々から削り出されるボード。木という地球の「表面」を削り出した板。それに乗って、山肌や海面を滑っていく。地球の表面を削り出した板で、地球の表面を滑る。それが「横乗り」という営みであるということになる。

人物の内面にフォーカスすることなく、ひたすらに滑走シーンが映された映画祭からして、横乗り文化にとって重要なのが物事の「表面」であることが窺えた。どのように見えるか、どのような滑りが具体的に表れるか、それが「カッコいい」か。それが横乗りの全てであり、人間的葛藤は二の次になる。その徹底した「表面」の追求には爽快さがあった。

さて、削り出された極小の表面を使って広大な表面を滑るという横乗りにおいて、そのツールは板と身体だけだろうか。あと一つ、欠かせないものがある。重力である。

どのスタイルにせよ、横乗りにおいて高さや傾斜が重要な役割を果たしている。それによって滑走のスピードやスリルが実装できるからだ。高いところから低いところへ移動する。その過程に、さまざまは障害物が設定され、それを克服するトリックが生まれる。それが遊びになる。

横乗りというアクティビティを煎じ詰めれば、その核にあるのは、上から下への「落下」だ。

2本目の映画で、スケボーの映像の間に橋から川にダイブするシーンが挿入されていた。横乗りが「落ちる」ことの変奏であり、落下をめぐる欲望によって駆動されていることをそれは端的に示していた。

横乗りの最小限の実践は、いまここでジャンプして着地することである。それがもっともミニマムな形での「横乗り」であり、そのジャンプから着地までの間に手すりや海や雪山があることになる。横乗りとは、ゆるやかに落ちることであり、そのプロセスに種々のトリックが噛まされることでそれが遊びたりえている。横乗りとは「落下の先送り」であると、そう言ってみることができる。

横乗りは、この世界のもっとも根本的な原理である重力をその条件として必要としている。「表面」の遊戯である横乗りが、世界のもっとも根源的な力と密接に関わっている。

表面と根源。一見対極にある両者を溶け合わせたところに、「横乗り」のライダーがいる。

人々は世界の根源に接近する術として、世界の表面と戯れているのだろうか。

映画を見ていると、横乗りをする人々の「表面」との戯れは、例えば詩を書くことやラップをすることに近いものだと感じられた。それは、事物の道具としての目的や意味から離れて、そのモノの「形そのもの」を扱おうとするという意味においてである。

たとえば、スケボーで街の手すりや階段を縦横無尽に滑走する。もちろん、そのときライダーにとって手すりは手をつくものではなく、「ただ上から下に伸びている棒」であり、手すりのそうした「事物としての性質」のみを取り出すことで、遊戯の中に手すりを取り込むことに成功している。

サーフィンにせよスノボーにせよ、そうやって街や自然にある事物の表面的な(また表面だ!)外形的特徴だけを受け取ることでその営みを成り立たせている。

それはたとえば、言葉の意味から離れて音の響きだけに着目して韻を踏むラップのようなもので、ナンセンスな言葉の組み合わせで通常の散文では喚起できない情感をもたらす現代詩にも通ずる。

街中にある手すりから手すりへ、そして壁から階段へと滑走していくスケートボーダーは、いわば「街の韻」を踏んでいる。波の中を上下に動くサーファーは、「海の韻」を踏んでいる。事物の意味や目的ではなく、そこにある事物の形そのものにある「韻」のリズムだけが横乗りの原理になっている。

ラップと横乗りはともにストリートカルチャーであるが、両者の実践はその根本で繋がっているのだ。

手すりを滑るライダーに対して警備員が怒っているシーンがあった。言葉や事物を脱目的化するナンセンス芸術は歴史的に国家の統制の対象になってきたが、それは、そうした営みによって事物のポテンシャルを引き出すことが国家にとって危険性を持っていたからだ。モノのポテンシャルのままに、目的から離れてただモノとして事物を扱う姿勢は、統治者にとっては危険である。モノのポテンシャルを利用して叛逆されるかもしれないし、言葉のポテンシャルを尽くして統治者の欺瞞を暴くかもしれない。

その意味で、スケボーをはじめとした横乗りにはナンセンス芸術としての左翼性がある。

スケボーとラップがともにストリートカルチャーであることはこのことからも理解することができる。要するに、公的に承認された「競技」ではない。最近はサーフィンやスケボーのオリンピックへの競技化も進み公的な包摂の手が伸びているが、それは純粋な遊戯としての横乗りが持つポテンシャルをどうにか管理下に置いて、公にとって無害化したいという体制側の欲望の表れと見ることもできる。もちろん、横乗り文化にとっても競技化によるメリットは多くあるはずで、それを全面的に止めるべきだとは思わないが、ストリートの、純粋な遊戯としての横乗り「も」引き継がれていくことの意味は大きいだろう。この映画祭もそのための実践の一つだと思った。

言葉の「表面」をすくい取ることで、言葉の道具的な意味を無効にし、ナンセンスな「言葉遊び」をする詩、ラップ。それを街や自然で行う「横乗り」。そしてそれらは、世界の根本的な原理と戯れている。

あるいは。

スケーターが街を涼しげに滑っていく。そこにある、カッコいいけどなんとなくいけすかない感じ。横乗りのライダーの姿はときに人をイラつかせる。それは、「横乗り」が人体の否定であるからではないだろうか。 人体は横移動するようにできていない。前向きに歩行するように身体を進化させてきた。そしてスケーターは、こちらが人体の進化に従った歩行をしているのを横目に、そうした歴史を無化した姿勢で颯爽と滑っていく。それは大げさに言って人体と進化の否定であり、それが人を淡い嫉妬に駆り立てるのではないだろうか。

その意味で、横乗りのライダーは時間的な意味でも「表面」を生きていることになる。時間の積み重ねの厚みの上には立たず、歴史が不在でペラペラの「今ここ」を滑っていく。

地球の表面を滑り、そこにある事物の形の表面をなぞり、「現在」という歴史の表面をも「横乗り」していく。

そうして歴史を無化するときに必要とされるのが、もっとも根源的で普遍的な重力であるということを改めて考える。時間の積み重ねを無効にし、「今ここ」だけを生きるある種の軽薄さをもった存在であろうとする営みが、この世界の根本と繋がる。ここでも原理と表面が「直挿し」される。

先ほど、ナンセンスな言語実践と横乗りの関わりについて考えたが、横乗りにおいて、世界の根本原理としての重力がその営みを支えているとすれば、言語活動にとっての「重力」とは何か。最後にそれを考えたい。

言葉は、海や雪山のような自然とは違って人間が開発してきたものであり、したがって、言語活動において働く「重力」は人間に宿る何かだということになる(そう考えると、街の手すりや階段もまた人工的なものであり、その意味で街は「言語」に属するのかもしれない。そうであれば、「街の韻を踏む」という比喩の意味するところがますます実に迫ってくる)。

人が言語を使って何事かを表現する。あるいは、ナンセンスな言葉遊びをする。言葉の表面と戯れる。そのときに働く「人間的重力」とは何か。

言語活動一般に話を広げて考えてみる。

何かを書く、読む、話す。そうした、根本的には何についてでもいいのに何かについてそれをするということを導く「重力」とは何か。人をそれぞれの偏りに導く固有の重力。

たとえば、それを千葉雅也は『勉強の哲学』において「欲望」であると論じた。自分をある趣味や関心に導く重力としての欲望。たとえ一見ナンセンスな言葉遊びだとしても、そこには必ずその人の欲望が反映されている。

勉強によってさまざまな分野の言葉と戯れ、それを通じて自分の「重力」としての欲望を発見すること。これまでの話を踏まえると、自分のもっとも軽薄な、表面的な趣味は、自分をもっとも根源的に規定している重力としての欲望に繋がっているのかもしれない。その重力を感じるために、自分の「表面」と戯れる。なにげない、取るに足らない、たわいのない自分の「表面」に、もっとも混じり気のない自分の核が宿っている。

サーファーやスケーターが、世界の表面を通じてその根源に触れる存在だとすれば、おれは言語活動において自分の、あるいは人間の根源にアクセスするライダーとして、人間と言葉の「表面」を滑っていきたい。

もちろん、横乗りで。

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