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待ち合わせに相手が遅れて気づけたこと

こないだ、東大宮のカフェである方と待ち合わせをしていたのですが、待ち合わせの時間から10分経っても20分経っても現れる気配がなくて。

カフェラテ片手に仕事をしつつ、さすがに30分経ったころに「大丈夫かな?」と心配になってメッセンジャーを送りました。(寝坊だったそうで、結局そのあと無事に合流できました)

このときのわたしの動き、どう思いますか?30分ノーリアクションって、待ちすぎ?

というのもですね、トラウマというほどでは全くないのですが、わたしにとってかなり深く心に刻まれている出来事の1つに、小学生のときの忘れ物があります。

わたしの通っていた小学校は、校門を入ってすぐに体育館があって、その片隅に電話ボックスがありました(電話ボックスって、ちょっと懐かしいですね)。

田舎の小学校です。大体のご家庭には車があって、子どもが「忘れ物を持ってきて」と電話をしたら、休み時間に届けてくれていました。先生も、それを黙認している雰囲気がありました。

そんなある日、わたしの担任の先生がふと、こんなことを言いました。

『お前らなぁ、忘れ物を親に持ってきてもらってるけど、
 お前らの忘れ物持ってくる最中に親が事故にでも遭ったらどう思う?』

先生の意図としては「だから忘れ物には気を付けなよ」、という、それだけのことだったと思います。しかし、当時のわたしにとって、その言葉は衝撃的で、「忘れ物をしたら親が事故に遭う」、と変換されてしまいました。

それ以来、高校生になって雨の日に駅まで親に車で迎えに来てもらうとき、ピアノ教室の送り迎え、etc.、数えたらきりがありませんが、わたしの都合で人に動いてもらうとき、「万が一何かあったらどうしよう」という心配は、長らくわたしの心に住み着いていました。

相手だっていい大人です。いい大人が、その人の判断で、わたしと会う、わたしを迎えに行く、と決めて来てくれているのに、「何かあったらわたしのせい」なんて勘違いも甚だしいことです。相手を馬鹿にしているとすら言えるかもしれません。そう頭ではわかっていても、なかなかその癖が抜けず、心配性で自意識過剰な自分、小心者の自分を責める、という謎のループに突入していました。

今日、彼女は幸いただの寝坊だと聞いて、問題なくそのあとに会えることがわかり「あ~よかった~」とおいしいカレーライスを頬張りながら再び小学校の先生の言葉に思いを馳せたとき、心と身体が緩んでいたのか、いつもと違う考え方が出てきました。

『わたしはその心配性と自意識過剰のおかげで
 なんでもない日常を有難がることができる』


何もなくて、よかった。
無事で、よかった。
会えて、よかった。
頼って、よかった。
甘えて、よかった。

そう思えたら、呪いのように(冒頭、トラウマではないって書いたのに呪いって書きましたw)思っていた先生の言葉も愛おしくすら思えました。

もともと日本は災害が多く、「今年も何事もなくてよかった」、と年の瀬を迎える国です(急に話を大きくしだす)。みなさんはわたしほど心配性で自意識過剰ではないと思いますが(笑)、今日は「何事もなくてよかった」、と思ってみるのなんていかが?

みほ

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