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おはよう(略)さようなら、すべてのエヴァンゲリオン

※CAUTION!!!!
この記事は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」および「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」のネタバレを激しく含みます。

今日はシンエヴァを観た後、そのまま予約していた美容院に寄って電車で帰宅したのだけど、映画以降は終始心ここにあらずという感じだ。今もまだ心だけはIMAXシアターの座席に残っているのかもしれない。

別れの苦痛を伴うテーマが持つ映画の後のこの喪失感、久しく感じてなかったけどこの身に覚えがある感じ、以前は何で味わったのだっけ?と電車に揺られながら考えてた。

既にネタバレのネタバレを冒頭でしてしまっているが、正解は「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」だった。家で検索して答え合わせするまで、該当の映画は「ヤキニクロード」だと思っていたのだけど、ちゃんとWikiを見たら僕が言いたいのはカスカベボーイズだった。

以降は、シンエヴァは言うまでもないが、カスカベボーイズのネタバレはどうでもいいと思っているか、視聴済みの人に斜め読みして欲しい。

僕からエヴァンゲリオンへ、感想という名のラブレターである。


僕はこの感覚を2004年に知っていた

2021年から遡ること17年。簡単な引き算のはずだが、言い出しておいて自分で驚いている。Wikipediaによれば17年前、件の「カスカベボーイズ」が上映されたらしい。

それが正しければ僕は当時小学何年生の時分で、「映画版クレヨンしんちゃんは熱い」という持論を持っており、某作も(多分)家族で劇場に足を運んでいた。

「カスカベボーイズ」を知らない人のために念の為あらすじを説明すると、基本的には映画版クレしんのテンプレ通り、変な世界に迷い込んでしまった野原一家とカスカベ防衛隊が世界の危機を救うという本筋に変わりはないのだが、本作は他の映画と一線を画している部分がある。それが、古い映画館のスクリーンから「映画の中の世界に入る」という導入であり、幕引きには「クレしんの人々にとっても「映画の中の話」に過ぎなかった」というなんとも辛辣でエモーショナルな設定だったのだ。

そして決定的な追い打ちとなったのが、「つばきちゃん」というヒロインの存在。年齢はななこお姉さんとしんちゃんの間くらいで、年上のお姉さん好きのしんちゃんが「自分にはななこお姉さんがいる」と葛藤しながらも惹かれてしまうほどの健気なヒロインっぷりを発揮し、「しんちゃんたちと同じように春日部から迷い込んでしまった」という彼女と一緒に元の世界に帰るためにしんちゃん達は奮闘することになる。

しかしお察しの良い皆さんならお察しの通り、この映画のオチは「つばきちゃん」は実は映画の中のキャラクターなので、しんちゃんと同じ春日部には帰れませんでした。でも春日部ではシロが待っていました。つばきちゃんのことは残念だけど、無事に帰れて良かったね!という結末なのである。

17年経った今なお、(名前を間違えてもほとんどがうろ覚えでも)印象に残っていて思い出せるのは、廃映画館の真っ暗なスクリーンの前に戻ってきたしんちゃんの切ない表情である。それは多分、しんちゃんと一緒に、知らず知らずのうちにつばきちゃんに対して失恋していた自分の気持ちと重なったからなんじゃなかろうか。

シン・エヴァンゲリオンは敵わないすべての片思いを振り切った

エヴァを追い続けてきた人ならば、並み居る登場人物に対して、さぞやそれぞれ一家言あることだろう。例えば、ゲンドウには息子と相容れないままであってほしいし、冬月にはそんなゲンドウをずっと支えていてほしいし、ミサトさんにはいっそのことシンジ君を拒絶し続けていてほしいし、レイやアスカにはなんだかんだでシンジ君を支え続けてあげてほしいし、カヲル君にはミステリアスな不思議くんでいてほしい。そして何より、シンジ君はシンジ君のままでいてほしい、というように。

自分を含む皆様におかれましては、さぞ上映直前までいくら「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」とキャッチコピーで言われていようとも、さよならと言いつつもまだどこかに遺恨を残してくれるのではないかと淡い期待を抱いたことだろう。しかし冒頭から赤く染まったパリを浄化装置で生き返らせることが出来ることを示され、長閑な生き残りの村「第三村」では、14年分の歳を取ったエヴァチルドレン以外の人々が、大人になり目下の仕事に粛々と取り組み、シンジが犯した罪を受け入れようとするトウジやケンスケが居て、ああ、この作品において時は巻き戻らないのだということを突きつけられ、次第に本当の終わりが近づいていることを悟っていったことだろう。

序盤、シンジ君が鬱々どころではない負のエネルギーを携え、それなりの尺を使っていつまでぐずぐずしてるんだ、と思わせられておいて急に手のひらを返され、レイの喪失を受け入れ、ゲンドウの弱さを受け入れ、彼は大人になってしまうんだ、文字通り手の届かないところへ、精神的にも、メタな意味でも、行ってしまうんだなという寂しさを残して、その終幕を迎えた。

ドローンからの実写に切り替わり反対ホームから発車した電車は、同じ時を迎えながらも、別の道を歩んでいく彼らのメタファーだったのだろうか。25年を経て大人のシンジ君を迎えに来たのは、あれだけ決死の思いで救おうとしたレイでも、「両思いのときがあった」と吐露しあったアスカでもなく、一番浅薄な(今作まで名前も知らなかったという意味で)付き合いであるマリだったというのは、なんともビターな後味ではある。

「終幕はけっして劇的ではなく、日常的な日常が流れていきます。皆さんも是非、エヴァンゲリオンの無い世界にお戻りください。」

案の定最後のシーンとなった二人の背中を幕引きに流れ始めた「One Last Kiss」には、そんなメッセージがあったように思う。

もう世界観とかそういう次元じゃないんですね

元々4部作で終わると言われていたものの、「エヴァを終わらす気なんてないはずだ」とどこかで思っていたが、上映開始以後の反応とかを見て即、「いや、終わるんだな」と思って、自分の甘さを改めそれなりに覚悟をしていたつもりだったんだけど、いざ蓋を開けたらやっぱり全然足りなくて、「セカンドインパクトは海の浄化で、サードインパクトは地上の浄化だったんですよね」とか「ヴィレはこういう経緯で出来たんですよね」みたいな置いてかれがちだった伏線とか全部懇切丁寧に説明されて(膨大な説明がされているけどそれでも考察を楽しむ余地は十分に残されていると個人的には思います)、みんな身の上話とか思いの丈とかめちゃめちゃに吐露してるし、そういうキャラクターの思いも全部乗せて、本当に集大成にしようとしてるんだなというのをメチャメチャ感じていました。

そして、極めつけは終盤のゲンドウ・13号機との戦い。「人間が知覚出来る空間に置き換わる」という前置きが一言あって、以降は思い出によって形成された世界で戦うことになるんですけど、ミサトさんの部屋をぶち破ったら撮影セットのハリボテだったみたいな割と衝撃的なシーンがあって、その時は「まあ精神的な世界だからそういうこともあるか」って思うけど、後々思い返したらやっぱりあれはやりすぎというか、世界観とかも全部ひっくるめて「おしまい」って言おうとしてる、それも本気でしてるのが垣間見えた気がして。もっと言うと制作陣が普段観ている景色とかを取り込むことで、自分たちもこれを観て「終わったんだ」って納得するように作ろうとして作られた作品なんだというのが見えた気がして、作品本来のメッセージ性もだし、どれほどの苦労があって僕たちはこれを観れているんだろうみたいな感情が溢れ出して、とにかく涙腺を我慢するので大変でした。まさかエヴァで泣きそうになるとは思わなかったけど、それが本来書きたかったものであって、25年をかけてようやく書けたということなんでしょう。エヴァと決別する時を以って、エヴァを最も深く知れたということなんでしょうね。別れ話の時は心を曝け出してありのままを喋れる恋人同士みたいな。それでもエヴァは終わるので、僕はこうして失恋してようやくラブレターを書くわけです。

別れは原動力になると信じて

誰がなんと言おうとこれがエヴァンゲリオンで、僕が好きだったものだったので、こうして熱烈に溢れ出した思いを書き綴りました。

思っているけど書ききれなかったこととしては、「一枚一枚が芸術のようだ」「一体どれだけの時間と労力を使ったらこんなものが出来るんだ」「世の中にこんな素晴らしいものが作れるという証明になっており逆に絶望するまである」とかなんとかありますけど、まあ、もういいでしょう。だって、これはエヴァなんだから。唯一無二なんだから。

ところで「これは俺の観たかったエヴァンゲリオンじゃない」みたいなコメントもちらほらあって、そういうブログとかを見に行く気にはなれないので持論を話すだけ話したいと思うけど、仮にそうだったとしても、エヴァがこうあるべきだっていうのはお門違いで、あなたが好きだった物はどこにもないってことなんだと思う。僕はもともと元恋人を悪く言うやつの気持ちが分からない性分なので、そういうことなのかもな。

僕がエヴァンゲリオンを好きだったなのは事実で、思った以上に辛い失恋だったけれど、俺はエヴァンゲリオンを好きになってよかったよ。


さらば、すべてのエヴァンゲリオン。

最高に最高でした。

読んでくれてうれしいです。