フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』試論
はじめに
本稿ではルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804–1872)の『将来の哲学の根本命題』(Grundsätze der Philosophie der Zukunft, 1843)を読む.
かつて筆者は大学院生時代に「ヘーゲル左派研究をしたい」と周囲に漏らしていたが,あれから早10年が経とうとしている.研究は全く進んでいない.フォイエルバッハを読む羽目になったのは,初期マルクスをその時代に即して理解しようと思ったからである.カール・マルクス(Karl Marx, 1818–1883)はフォイエルバッハの人間主義に同意しつつも,その関心を政治社会の問題の解決に応用しようとした.そのためにマルクスが最初に取り掛かったのはヘーゲル法哲学の批判であったが,マルクスに先行してヘーゲル法哲学に言及していたのはアーノルト・ルーゲ(Arnold Ruge, 1802–1880)であった.マルクスはルーゲとともに『独仏年誌』(Deutsch-Französische Jahrbücher, 1844)を刊行するものの,その間にマルクスはルーゲのごとき政治的共和主義をも乗り越えて,国家や法という上部構造よりもむしろ近代市民社会や経済という土台の方に研究の矛先を向けたのである.
そのマルクスが影響を受けたのはフォイエルバッハ「哲学の改革のための暫定的命題」(Vorläufige Thesen zur Reformation der Philosophie)——このタイトルはおそらく意図的にルターの宗教改革(Reformation)と同じ響きを持っていると思われる——だとも言われるが,いわばその姉妹編が『将来の哲学の根本命題』である.
フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』(1843年)
単に「哲学」ではなく「将来の哲学」を標榜するこのタイトルにはどのような意味が込められているのだろうか.ここで「将来 Zukunft」とは,一つには少なくとも1843年頃のフォイエルバッハから見ての「将来」ということであろうが,それは果たしてどれほどの時間的な広がりを想定しているのであろうか.フォイエルバッハ自身はこのタイトルを名付けた理由について「序文」の中で次のように説明している.
ここで「将来 Zukunft」は,「洗練された幻想と意地わるい偏見の時代」としての「現代 Gegenwart」と好対照をなしている.なぜ本書が「根本命題」たり得るかと言えば,それが諸々の「単純な真理 die einfachen Wahrheiten」(ここで「単純な真理」が複数形であることに注意されたい)に基づいて「そこから抽象化されたもの abstrahirt sind」だからである.
フォイエルバッハの時代に「現代の哲学」というものがあったとすれば,それは人間の「肉体をもった,生きた魂」を欠いた,「死んだ魂」の哲学だった.「肉体をもった,生きた魂」は欲求を持っている.だがその「肉体をもった,生きた魂」は「人間的悲惨」の中にある.
この「根本命題」が行うのは,「人間を描き出すこと」ではない.人間とは何か,ということについては人間の本性についてホッブズやらロックやらヒュームやらが語っているが,フォイエルバッハが行うのはそうではない.人間を捨象した神学を批判して「人間」という存在を救い出すことが課題なのである.フォイエルバッハにとって「真理」とは,「神的」ではなく,どこまでも「人間的」なのである.
近世の課題
先ず最初にフォイエルバッハは,いきなり「将来の哲学」について語る前に,それ以前の「近世の課題 die Aufgabe der neueren Zeit」を議論の出発点とする.
ここで〈転化 Verwandlung〉が強調されている点については,本書の中で徐々に明らかにされるであろうが,さしあたりこれに関連するところではすでにフォイエルバッハは『哲学改革のための暫定的命題』(1842年)の中で「神学の秘密は人間学である」と述べていたことが注目される.
フォイエルバッハはここでは〈思弁哲学——思弁神学——人間学〉をひとつながりの連関のうちに捉えている.フォイエルバッハのこのような理解を可能にした背景には,〈人間〉という存在から大きな乖離状態に陥っていた〈通常の〉哲学や神学に対するアンチテーゼとして,思弁神学と思弁哲学を「此岸」的なものと位置付ける論理が大きく作用している.
『暫定的命題』(1842年)のこの一節を援用した解釈が可能であるならば,フォイエルバッハが「神学の人間学への〈転化〉」と述べた際の「神学」が,厳密には「思弁哲学」を意味するというように理解できよう.実際,フォイエルバッハは「思弁哲学」と「通常の神学」という区別を『根本命題』でも引き継いでおり,次のように述べている.
ちなみに「近世」とは,歴史学における一つの時代区分を意味する用語である.「近世」は,およそ近代の始まりに位置しており,中世よりも後の時代を指している.「近世の課題」の背景にあるのは,具体的にはマルティン・ルター(Martin Luther, 1483–1546)の宗教改革運動に端を発するプロテスタンティズム(Protestantismus)である.
プロテスタンティズム
ここで「神学」とは,それが「思弁的あるいは観想的な傾向」を有する「神学」であり,要するにカトリシズムに他ならない.カトリシズムでは「神とはそれ自体自身何であるか」が問われ,その際に人間の存在を前提としないいわば〈即自存在 Ansichsein 〉としての神が問題であった.これに対して,プロテスタンティズムでは「人間にとって神とは何であるか」が問われ,神を対象とする主体の立場に人間を据えた.プロテスタンティズムにおいて人間が自らの対象とする神は,いわば〈対自存在 Fürsichsein〉としての神である.「まさに人間である神,すなわち人間的な神 der menschliche Gott」というのは,プロテスタンティズムにおいて人間の思想の中に宿る神こそが問題であることを端的に言い表している.
プロテスタンティズムの理神論
プロテスタンティズムが「ただ単に実践的に nur praktisch」否定しただけの「神それ自体 Gott an sich あるいは神としての神 Gott als Gott」*2とは,いかなる神であったか.プロテスタンティズムが否定したのは,カトリシズムがまさに実践的に示しているような世俗的のあり方であって,「彼岸的なあり方 jenseitiges Wesen」としての神ではなかった.
ここでルターは"an sich"と"für den Menschen"の観点からプロテスタンティズムの神について整理しているが,このような手法は"an sich"と"für sich"の観点から叙述したヘーゲルのそれを匂わせるものである.つまりプロテスタンティズムは「神それ自体 Gott an sich」,いわば〈即自存在〉としての神は否定するが,天国に召された人間が自らの「対象 Gegenstand」として顕在化させる「神」,いわば〈対自存在〉としての神までは否定しなかったのである.
(つづく)
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