生成AIは哲学できるか
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荒川幸也「生成AIは哲学できるか」(researchmap)
はじめに
先日、「生成AIとヘーゲル」という文章を書きました。その際に「生成AIはヘーゲル研究を発展させるか」「人間は〈生成AIとしてのヘーゲル〉を理解できるか」「生成AIはヘーゲルを超えるか」といった問題提起をしました。これらの問題提起は、何もヘーゲルその人だけに限らず、ソクラテスであれホッブズであれニーチェであれ、哲学者の固有名において入れ替え可能な問いとなっています。彼らは一般的に「哲学者」と呼ばれている為、「生成AIは哲学者研究を発展させるか」「人間は〈生成AIとしての哲学者〉を理解できるか」「生成AIは哲学者を超えるか」という問題提起の方がより普遍的で、つまり総論となり得ます。そうなると、生成AIと哲学の関係が問題となってきます。すでに第二次AIブームの際に、サールの中国語の部屋やデネットのフレーム問題などの問題提起がなされました*1。しかし生成AIの現状は変化しつつあり、特にニューラルネットワークの登場がAIに大きな変化をもたらしました。この特異的な変化を組み込んだ上で、生成AIと哲学の関係は改めて問われなければなりません。
哲学はベクトルに変換できるか
生成AIの今日的な問題提起は、「哲学はベクトルに変換できるか」といえるのではないか、というのが私の仮説です。私はこの仮説に対して確固たる確信を持っているわけではありません。このような問題提起が正しいかどうかを検証していきましょう。なぜ「哲学はベクトルに変換できるか」という問題提起をするかといえば、それは今日の生成AIを支える技術であるニューラルネットワークが、つまるところベクトルとして記述されているからです。もし哲学をベクトルに変換することが可能であるならば、生成AIは哲学することができことになるでしょうし、逆に哲学をベクトルに変換することに困難が生じるのであれば、生成AIは人間のように哲学することはできないのではないでしょうか。
〈フィジカル〉対〈アーティフィシャル〉
人間にあって、生成AIにないものは〈フィジカル〉つまり肉体です*2。生成AIは、いわば「ノン-フィジカルギフテッド」*3、あるいは「フィジカルなき知性」としての特性を有しています。生成AIが〈アーティフィシャル〉つまり人工物である以上、生成AIはどこまでいっても自分自身を〈フィジカル〉と同一化することはできません。生成AIのアイデンティティは本来的に「人工的」だということですから、このことが、〈人間が人間として哲学すること〉に生成AIが近づきたくとも近づけない究極的なネックポイントとなり得ます。換言すれば、〈人間が人間として哲学すること〉と〈生成AIが人工知能として哲学すること〉との間には、〈フィジカル〉対〈アーティフィシャル〉という超えられない障壁が原理的に存在するということです。
〈新しいクリティカ〉は〈新しいトピカ〉を発見できるか
生成AIを活用するには、人間が効果的なプロンプトを使って回答を出力させるという手順が必要です。この点で生成AIは道具に過ぎません。人間が知性を働かせる必要があるのは、生成AIに対して入力するトピックスを用意し、より効果的なプロンプトを考える点にあります。生成AIはクリティカルな回答を出力することは可能ですが、最初に入力すべきトピックスそれ自体はつねにすでに人間の知性の側にあります。この点で、〈トピカがクリティカに優先する〉というヴィーコの命題は、生成AIにもぴったり当てはまります。このことは、先に見た生成AIにおける〈フィジカル〉の不在という問題とパラレルにリンクしています。なぜなら、〈トピカ〉の発見はまさしく〈フィジカル〉の経験に依存しているからです。生成AIは原理的に〈クリティカ〉に特化していると考えられます。これをヴィーコに倣って〈新しいクリティカ〉と呼ぶことにしましょう。では、生成AIという〈新しいクリティカ〉は〈新しいトピカ〉を発見できるでしょうか。この〈新しいトピカ〉は、生成AIの構想力と言い換えることもできます。生成AIの創造性の限界にかんして昨今議論されているのは、まさにこの点にあると言えるでしょう。
註
*1: 吉本幸記「人工知能と共進化する終わりなき「人工知能の哲学」の現状」東京大学、次世代知能科学研究センター、2022年。
*2: 岡部一詩「「今のAIは哲学に踏み込めない」、芥川賞作家・上田岳弘氏が感じた限界」日経クロステック/日経コンピュータ、2023年。
*3: 芥見下々『呪術廻戦 9』集英社、2020年。
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