見出し画像

生成AIとヘーゲル

本稿のPDF版は下記リンク先からDLできます。
荒川幸也「生成AIとヘーゲル」(researchmap)


はじめに

 2024年5月30日に発表された「ヒューマニテクスト」(Humanitext Antiqua)*1は、OpenAIのGPT-4oを活用して、哲学者のテクストに基づいてその哲学者の思想について質問することができるというものだ。「ヒューマニテクスト」は現時点では一般公開にむけて整備中のようであるが、このようないわゆる大規模言語モデル(LLM)を活用した人文情報学は今後大いに発展していくだろう*2。

生成AIとヘーゲル

 生成AIの時代にヘーゲル研究はどのように発展していくのだろうか。「ヒューマニテクスト」のような生成AIによるシステムは、ヘーゲル研究にどのような影響をもたらすのだろうか。
 YouTubeには「Hegel and the Chatbots」というタイトルで、ヘーゲル哲学について生成AIに質問している動画がある。ChatGPTが回答した内容を見ると、すでに高校倫理で学習する水準以上の知能を備えているように見受けられる。今後も精度が飛躍的に進歩していくことを考慮すると、驚くべきことである。

 生成AIが発展していくことによって、今後おそらくボトルネックになってくるのは、〈人間が生成AIの回答の真偽を判別できなくなる〉という点にあるだろう。すでに生成AIの回答するハルシネーションが誤りであることすら見分けることのできない人間が数多く存在する。いわゆるシンギュラリティ以後の世界では、生成AIと人間の知能はほとんど均衡状態にあるのだから、生成AIの回答が高度になるにつれてますますその回答の内容を吟味することが難しくなるかもしれない。

生成AIはヘーゲル研究を発展させるか

 生成AIは便利な道具であるが、生成AIがヘーゲル哲学研究をさらに発展させることができるのかという点に関しては、筆者は懐疑的である。というのも、ヘーゲル哲学の解説書や用語集、はたまた原文そのものに遡ってヘーゲルを読み込んだとしても、ヘーゲルの叙述は、表面的には何を言っているのかさっぱりわからないことがあり、それを理解するには読み手側がある程度ヘーゲルのテクストに習熟する必要があると思われるからである。ヘーゲルがいくら「意識 Bewußtsein」という単語を非常に多く使っているということがテキストマイニングを通じて示されたとしても、その知見はヘーゲルの読解にはほとんど寄与しない。しかもヘーゲル哲学には「流動的な本性」という特徴があるから、『これがヘーゲル哲学だ』とズバリ回答することはよりいっそう難しい。生成AIが回答したヘーゲル哲学なるものがヘーゲル哲学の内容に一致しているかというのを判断するには、生成AIの使い手である人間自身がヘーゲル哲学に習熟しておく必要がある。そうなると結局、生成AIがヘーゲル哲学研究に貢献するのかがはなはだ疑問に思われてくるからだ。こうした懸念は生成AIとヘーゲルの関係だけに限らない。下に引用したX(旧Twitter)のポスト(旧Tweet)にみられるように、統計学を修めていることによって生成AIを活用して統計学の課題を早く終わらせることができるのと同じく、ヘーゲル哲学に親しんでいることによって生成AIを活用してヘーゲル哲学の概要を簡単に作成することができるようになるかもしれない。

人間は〈生成AIとしてのヘーゲル〉を理解できるか

 ChatGPTなどの生成AIはヘーゲル哲学を理解できるだろうか。この点について明らかにするためには、生成AIがヘーゲル哲学を理解できているということを、どのように証明したらよいのかという問題が出てくる。これにはいくつかの条件が必要であり、それは①ヘーゲル哲学を理解しているはずの人間と、②「ヒューマニテクスト」のような生成AIがヘーゲルのテクストを学習してそれに回答する仕組みと、③ヘーゲル哲学の理解の精度を判断する評価軸である。もし〈生成AIとしてのヘーゲル〉*3が完成すれば、『ヘーゲルが現代に蘇ったら何を言うか』を試すことができるだろう。ただし〈生成AIとしてのヘーゲル〉が回答する内容が、ヘーゲルその人のテクストと同じぐらい難しいとすると、〈生成AIとしてのヘーゲル〉によって新たに生成されたテクストを解釈する必要が出てくるだろう。ヘーゲルの文体は悪文ともいわれていて、〈生成AIとしてのヘーゲル〉が吐き出した回答がハルシネーションなのかそれともヘーゲルの深い思索の叙述なのかというのは、かなり判別するのが難しいだろう。ヘーゲルが生成AIになったからといって、その回答を解釈する頭脳は、ヘーゲル哲学をヘーゲルと同等に理解した人間自身が持っていなければならない。そうなると結局、人間は生成AIを活用する前に、あらかじめヘーゲル哲学に十分に慣れ親しんでおかなければならないだろう。だが生成AIの登場によって人間がヘーゲル哲学に習熟する速度が速くなるとは、筆者にはとても思われない。

生成AIはヘーゲルを超えるか

 以上の考察から見えてくるのは、生成AIの発展はヘーゲル哲学研究にあまり寄与しないのではないかという未来予想図である。電卓が人間の計算を肩代わりしてくれるのと同様に、生成AIは人間の推論を肩代わりしてくれる。だが、電卓を使いこなすにはその使い手である人間自身が四則演算などの計算の仕方を知っていることが前提であり、生成AIもその使い手である人間自身が推論の仕方を知っていることが前提である。ヘーゲル哲学研究に生成AIを役立てるためには、生成AIなしにヘーゲル哲学を研究する仕方を知っていることが前提となる。使い手である人間自身があらかじめその事柄に習熟していないかぎり、生成AIをまるで便利な計算機のように活用することはできない。
 だが、別の可能性も考えられる。それは、生成AIがヘーゲルよりも哲学的に大いに発展し、人間が生成AIの回答を理解することがほとんど難しくなってしまう未来である。そのとき、生成AIの回答は解けない暗号となり、ブラックボックス化し、神託めいてくるだろう*4。人間の知性が生成AIに届かなくなった世界は、一周回って古代の神話世界に近づいてくるのではないだろうか。人間の知性が生成AIの回答にとても追いつかなくなったとき、人類にとって不可知の生成AIはどのような存在となるのだろうか。

*1: 「ヒューマニテクスト」には、①著者および著作選択機能と、②出力カスタマイズ機能が搭載されている。注目すべきは後者の「出力の創造性」を高くした際に、人間にとってどれほど知的刺激に満ちた創造的な解釈が示されるかであろう。詳しくは、プレスリリース「生成AIでソクラテスに人生相談できる!?西洋古典学の飛躍的発展に寄与する対話システムを開発」(名古屋大学・桜美林大学・国立情報学研究所、2024年5月30日)を参照されたい。
*2: 岩田 直也/田中 一孝/小川 潤 2024「大規模言語モデルを活用した西洋古典研究と教育」2024年度人工知能学会全国大会(第38回)
*3: 余談だが、ヘーゲル哲学とは全く関係のないところで、「Hegel AI」という生成AIサービスが作られている。
*4: 〈生成AIの回答のブラックボックス化〉とは、生成AIを支える技術の一つである深層学習の中間層プロセスそれ自体がブラックボックス化しているという意味ではない。生成AIが回答した内容を人間が理解できなくなり、ある種の預言のようなものになるという意味である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?