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マルクス『資本論』試論④

第一部 資本の生産過程(承前)


商品のあいだに共通する「第三のもの」

(1)ドイツ語初版

 さらに,二つの商品,例えば小麦と鉄をとってみよう.それらの交換関係がどうであろうと,この関係は常に,ある所与の量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという,一つの等式で呈示することができる.例えば,1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように.この等式は何を意味しているのか? 同じ価値が二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,存在するということである.だから,両方とも或る第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体で独立して,その一方でもなければ他方でもない.それゆえ,それらのうちのどちらも,それが交換価値であるかぎりで,この第三のものへと還元可能でなければならないのである.

(Marx1867: 3)

(2)ドイツ語第二版

 さらに,二つの商品,例えば小麦と鉄をとってみよう.それらの交換関係がどうであろうと,この関係は常に,ある所与の量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという,一つの等式で表わすことができる.例えば,1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように.この等式は何を意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が,二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,存在するということである.だから,両方とも或る第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体で独立して,その一方でもなければ他方でもないのである.それゆえ,それらのうちのどちらも,それが交換価値であるかぎり,この第三のものへと還元可能でなければならないのである.

(Marx1872a: 11)

(3)フランス語版

 さらに,小麦と鉄という,二つの商品を取り上げよう.それらの交換比率がどうであろうと,この関係は常に,ある所与の量の小麦がどれだけかの鉄に等置される,という一つの等式で表わすことができる.例えば,1クォーターの小麦=aキログラムの鉄というように.この等式は何を意味しているのであろうか?それは,二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaキログラムの鉄のなかにも,ある共通なものが存在するということである.したがって,両方とも或る第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体としては,その一方でもなければ他方でもないのである.それらのうちのどちらも,交換価値として,他方のものにかかわりなく,第三のものへと還元可能なのである.

(Marx1872b: 14,井上康・崎山政毅訳,所収『マルクスと商品語』523頁)

(4)ドイツ語第三版

 さらに,二つの商品,例えば小麦と鉄をとってみよう.それらの交換関係がどうであろうと,この関係は常に,ある所与の量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという,一つの等式で表わすことができる.例えば,1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように.この等式は何を意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が,二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,存在するということである.両方ともそれゆえに或る第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体で独立して,その一方でもなければ他方でもないのである.それゆえ,それらのうちのどちらも,それが交換価値であるかぎり,この第三のものへと還元可能でなければならないのである.

(Marx1883: 3–4,岡崎次郎訳『資本論①』75頁)

「クォーター」とか「ツェントナー」といった聞き慣れない単位が登場するが,これらは一定量の小麦や鉄を示すための単位であるということが分かっていれば問題ない.
 ここでマルクスはある商品と別の商品との間に共通する「第三のもの」の存在を示唆している.これは以前のパラグラフで「内実 Gehalt」と呼ばれていたものである.
 さらに以前のパラグラフでマルクスは「内在的交換価値(valeur intrinsèque)というものは一つの形容矛盾 contradictio in adjecto であるように見える」と述べていたが,このパラグラフでいわれている商品間における「同じ大きさの共通物」すなわち〈第三のもの〉こそまさに「内在的交換価値」そのものであろう.マルクスは〈現象〉としての「相対的な」交換価値から,「内在的交換価値」へと徐々に議論を本質的に突き進めているのである.
 そうなると問題は,諸々の商品がそれに還元されうるところの「第三のもの」とは一体何かという点である.結論を先取りしてしまうと,それは「抽象的人間的労働」だということになるのだが,この点についてはもっと本書を読み進めていくより他にない.

平面幾何学における三角形

(1)ドイツ語初版

 簡単な幾何学上の一例が,このことをもっとわかりやすくするであろう.およそ直線形の面積を算定し比較するためには,それをいくつかの三角形に分解する.その三角形そのものを,その目に見える形とはまったく違った表現——その底辺と高さとの積の二分の一——に還元する.これと同様に,諸商品の諸交換価値は,それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている或る共通なものに還元されるのである.

(Marx1867: 3)

(2)ドイツ語第二版

 簡単な幾何学上の一例は,このことをもっとわかりやすくするであろう.およそ直線形の面積を測定し比較するためには,それをいくつかの三角形に分解する.その三角形そのものを,その目に見える形とはまったく違った表現——その底辺と高さとの積の二分の一——に還元する.これと同様に,諸商品の諸交換価値は,それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている一つの共通なものに還元されるのである.

(Marx1872a: 11–12)

(3)フランス語版

 初等幾何学から借用する一例が,このことをもっとわかりやすくするであろう.あらゆる直線図形の面積を確定し比較するためには,それらをいくつかの三角形に分解する.その三角形そのものを,目に見えるその形とはまったく違った一表現——その底辺と高さの積の二分の一——に還元する.これと同様に,諸商品の諸交換価値は一つの共通なものに還元されるはずであり,それらはこの共通なものの,あるいはより多くを,あるいはより少なくを,表しているのである.

(Marx1872b: 14,井上康・崎山政毅訳,所収『マルクスと商品語』525頁)

(4)ドイツ語第三版

 簡単な幾何学上の一例は,このことをもっとわかりやすくするであろう.およそ直線形の面積を測定し比較するためには,それをいくつかの三角形に分解する.その三角形そのものを,その目に見える形とはまったく違った表現——その底辺と高さとの積の二分の一——に還元する.これと同様に,諸商品の諸交換価値は,それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている一つの共通なものに還元されるのである.

(Marx1883: 4,岡崎次郎訳『資本論①』75頁)

ドイツ語版初版のみ,このパラグラフの「一つの共通のもの ein Gemeinsames」という語が強調されている*1.商品における「共通のもの」が幾何学上の三角形に例えられている.
 ここでマルクスが挙げている「簡単な幾何学上の一例」とは,三斜法として知られている測量の方法である(「幾何学」の語源は「土地測量」という意味である).平行四辺形の面積の半分が三角形の面積であるから,「底辺と高さとの積の二分の一」によって三角形の面積を計算できる.(ちなみに三角形の面積を求めるのにはヘロンの公式を用いても問題はない.)

 マルクスが取り上げているのはあくまで「直線的な図形の面積」を求める場合である.「直線的な図形」ではない場合には別の取り扱いをしなければならない.非平面幾何学における三角形(例えば,球面三角形や双曲三角形)の場合には,内角の和が180度にはならないからである.

複数形の「使用価値」

(1)ドイツ語初版

 交換価値の実体が商品という物理的で手掴みの実在すなわちその商品が使用価値として現に在るものとは全く異なるそこから独立したものであるということは,商品の交換関係から一目瞭然である.この交換関係は,まさに使用価値の捨象によって特徴付けられている.つまり,交換価値から考察すると,ある商品は,その商品〔*2〕がただ適正な割合で眼前にありさえすれば,他のいかなる商品ともまったく同じものなのである⁸.

(Marx1867: 3–4)

(2)ドイツ語第二版

 この共通なものは,商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的属性ではありえない.およそ商品の物体的な属性は,ただそれらが商品を有用にし,したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである.ところが,他方,諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは,まさに諸商品の使用価値の捨象なのである.この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じ大きさならば,他方の商品種類と同じである.同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである⁸」.使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり,したがって一原子の使用価値も含んではいないのである.

(Marx1872a: 12)

(3)フランス語版

 この共通なものは,商品の幾何学的とか,物理学的とか,化学的などというような自然的な属性ではありえない.およそ商品の自然的な属性は,ただそれらが商品を,使用価値を生む有用なものにするかぎりでしか,問題にならないのである.ところが,他方,商品の交換において,諸商品の使用価値は捨象され,いかなる交換価値も,まさにこの抽象に明白に特徴づけられているのである.交換においては,ある一つの使用価値は,それが適当な割合でありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけの価値がある.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じならば,他方の商品種類と同じである.そのあいだでその〔交換〕価値が同じであるような諸物のうちにはいかなる差異も区別も存在しない.¹」使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,ただいろいろに違った量でしかありえない.

(Marx1872b: 14,井上康・崎山政毅訳,所収『マルクスと商品語』527頁)

(4)ドイツ語第三版

 この共通なものは,商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的属性ではありえない.およそ商品の物体的な属性は,ただそれらが商品を有用にし,したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである.ところが,他方,諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは,まさに諸商品の使用価値の捨象なのである.この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じ大きさならば,他方の商品種類と同じである.同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである」⁸.使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり,したがって一原子の使用価値も含んではいないのである.

(Marx1883: 4,岡崎次郎訳『資本論①』76頁)

内容的には前のパラグラフに引き続き,マルクスは「共通なもの」の特徴を説明している.すなわち「共通なもの」は,あくまで交換価値に関する概念であって,使用価値に関する概念ではない,というのである.どういうことか.
 諸々の商品を使用価値の観点から比較すると,それぞれの使用価値は異なっている.これに対して,ある商品と別の商品との交換が成立する場合には,使用価値がどんなに異なっていようとも,交換価値の観点からみると両者の間に差異はない.商品間の交換関係は,使用価値を捨象するからこそ成立するのであり,これを説明するのが「共通なもの」なのである.
 ところで,このパラグラフはドイツ語版の初版から第二版にかけて叙述に変更が加えられている.とりわけ初版では「使用価値の捨象 Abstraktion vom Gebrauchswerth」という箇所の「使用価値」が単数形であったが,第二版以降では「使用価値」が複数形として「商品の使用価値の捨象 Abstraktion von ihren Gebrauchswerthen」へと修正されている.どうしてこのような修正が加えられたのであろうか.この点に関しては,まずは,一つの商品にみられる使用価値の複数性について確認しておきたい.例えば,筆の使用価値は紙に文字を書くことであるが,筆先でくすぐることもできる.紙の使用価値はそこに書かれるためだけでなく,汚れた物を拭いたりすることもできる.このように一つの商品であっても使用価値を複数有していることもあり,この点に気づいたマルクスは第二版以降でこの箇所の「使用価値」を複数形に直したのである.
 さらにまた「すなわち,交換価値から見れば,ある一つの商品は,それがただ正しい割合でそこにありさえすれば,どのほかの商品ともまったく同じなのである」(初版)という一文が,「この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである」(第二版)という一文へと変更されており,つまり「商品」間の相互比較から「使用価値」間の相互比較へと転換されている.なぜこのような転換がなされたのであろうか?おそらく,商品間の比較では,「ある一つの商品」のうちには複数の「使用価値」があり得るために,〈或る商品のもつ複数の使用価値〉と〈別の商品のもつ複数の使用価値〉とを比較するとなると,議論が錯綜してしまうおそれがあったからであろうと推測される.

原注8の検討

 ここでマルクスの議論の背景にあるのは,バーボンの次の主張である.

 ⁸)「商品のうち或る種のものは,その価値が等しい場合には別の商品と並ぶ〔代替可能な〕同等な財である.〔」「〕同等の価値をもつ諸事物に差異や区別はない…〔中略〕…百ポンドの値打ちがある鉛や鉄は,百ポンドの値打ちがある金や銀に匹敵する価値を持っている.」(N・バーボン,前掲書,53ページおよび7ページ)

(Marx1867: 4,岡崎次郎訳『資本論①』76頁)

さしあたり形式的な点について気づいたことを述べておく.バーボンの原文ではイタリックになっている“For one sort of wares are as good as another, if the value be equal.”(Barbon1696: 53)という箇所が,マルクスの引用文ではイタリックになっていない.反対に,マルクスの引用文では隔字体で強調されている「差異や区別はない no difference or distinction」という箇所は,バーボンの原文では強調されていない.マルクスによる引用文の最後“silver and gold”という箇所は,バーボンの原文では“Silver or Gold”(Barbon1696: 7)となっている.ちなみに,岡崎次郎訳では,上のページ数が「53ページ,57ページ」と訳出されていたが,これは誤訳である.“There is no〜”以下の文章はバーボンの原著では7ページに該当するため,「53ページおよび7ページ」が正しい.

商品の多様性と統一性

(1)ドイツ語初版

 それらの交換関係すなわちそれらが交換゠価値として現象するところの形式とは独立に,諸商品はそのために何よりも先ず価値として端的に考察されるべきである.
 使用対象や財貨としては,諸商品は,物体的に多様な諸事物である.これに対して,それらの価値の存在は,それらの統一性を形成する.この統一性は,自然からではなく,社会から生じてくる.多様な使用価値において多様に表現されているに過ぎない共通の社会的実体とは——労働である.

(Marx1867: 4)

このパラグラフからドイツ語初版と第二版以降とで記述が大幅に異なっているので,各版ごとに分けて考察してみよう.
 「交換関係」とは或る商品と別の商品とを比較した場合の「割合 Proportion」のことであり,それは例えば「一クォーターの小麦」が「x量の靴墨,y量の絹,z量の金等々」との等式によって表現されたのであった.マルクスはこうした交換関係を一旦度外視して,「商品はそのものずばり価値として考察されるべき」だという.このようにマルクスは,いわゆる「現象形式 Erscheinungsform」としての「交換価値」ではなく,より本質的な「価値」そのものを考察すべきだというのである.
 商品は,その物理的側面から見ると様々な姿形をしており多種多様であり,この点で商品は多様なあり方(Verschiedenheit)をしている.しかし,商品の「価値」について言えば,その外観のもつ多様性とは裏腹に,「労働 Arbeit」という「統一性 Einheit」にその基盤を持っている.つまり「価値」の実体とは「労働」に他ならない.マルクスが「統一性が自然ではなく社会から生じる」という場合,商品のその物体がもっている自然な性質に「価値」の起源があるのではなく,「労働」という社会的な営みの中に「価値」の起源があるということが,含意されている.

(2)ドイツ語第二版

 いま商品体の使用価値を度外視するならば,その商品体にまだなお残っているのは,労働生産物という一つの属性だけである.だが,労働生産物もまた我々の手の中ですでに変貌を遂げている.我々がその〔労働生産物の〕使用価値を捨象〔抽象化〕するならば,その労働生産物を使用価値にする物体的な諸成分と諸形式をも捨象〔抽象化〕することになる.それ〔労働生産物〕はもはや机でも家でも糸でもその他の有用な物でもない.すべてその〔労働生産物の〕感性的性状は抹消される.それ〔労働生産物〕はまたもはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の或る特定の生産的労働の生産物ではない.労働生産物の有用な性格と共に,それ〔労働生産物〕に具現化された労働の有用な性格は消失し,したがって,これらの労働の様々な具体的な諸形式もまた消失する.こうした労働はもはや互いに区別されるのではなく,みなことごとく同じ人間的労働に,抽象的人間的労働に還元されるのである.

(Marx1872a: 12)

(3)フランス語版

 諸々の商品の使用価値をひとまず取って措くことにすると,商品に残るものはただ,それが労働生産物であるという一つの性質だけである.しかし,労働生産物それ自体が我々の知らぬ間にすでに変貌を遂げているのである.我々が労働生産物の使用価値を捨象〔抽象化〕するならば,それ〔労働生産物〕にこの〔使用〕価値を与えていた物質的・形式的な諸要素はすべて一度に消え去ってしまう.それはもはや,例えば,机や家,糸などの有用な対象ではない.それはまた,糸織り女工や石工の労働生産物,すなわちいかなる特定の生産的労働の生産物でもない.労働生産物の特殊に有用な性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用な性格も,ある種類の労働を他の種類の労働から区別する様々な具体的な諸形式も消え去ってしまう.したがって,もはや,こうした労働の共通な性格しか残っていない.こうした労働はすべて,同じ人間的労働に,人間的労働力が支出された特殊な形式にかかわりなく人間的労働力の支出に還元されている.

(Marx1872b: 14,井上康・崎山政毅訳,所収『マルクスと商品語』529頁)

(4)ドイツ語第三版

 いま商品体の使用価値を度外視するならば,その商品体にまだなお残っているのは,労働生産物という一つの属性だけである.だが,労働生産物もまた我々の手の中ですでに変貌を遂げている.我々がその〔労働生産物の〕使用価値を捨象〔抽象化〕するならば,その労働生産物を使用価値にする物体的な諸成分と諸形式をも捨象〔抽象化〕することになる.それ〔労働生産物〕はもはや机でも家でも糸でもその他の有用な物でもない.すべてその〔労働生産物の〕感性的性状は抹消される.それ〔労働生産物〕はまたもはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の或る特定の生産的労働の生産物ではない.労働生産物の有用な性格と共に,それ〔労働生産物〕に具現化された労働の有用な性格は消失し,したがって,これらの労働の様々な具体的な諸形式もまた消失する.こうした労働はもはや互いに区別されるのではなく,みなことごとく同じ人間的労働に,抽象的人間的労働に還元されるのである.

(Marx1883: 4–5,岡崎次郎訳『資本論①』76〜77頁)

ドイツ語初版では,商品の物体的に多様な側面と,「労働」による商品の「統一性 Eineheit」の側面という二つの側面から論じられていたが,ドイツ語第二版以降では,こうした記述が撤回されている.
 こうした記述がなぜ撤回されたのかという点については,次のように考えられる.すなわち,「労働」と一言で言っても,それには「指物労働や建築労働や紡績労働やその他のある特定の労働」のように「様々な verschiednen 具体的諸形式」が考えられるため,商品の物体的な多様性と対照をなす労働の「統一性 Einheit」という一見鮮明な図式が直接的には成立しないことにマルクス自身が気が付いたからではないだろうか.
 加えて,ドイツ語第二版以降で見られるのは,単なる「労働」という表現から「抽象的人間的労働」という表現への変更である.ここで「抽象的人間的労働」はいかなる意味で「抽象的」なのであろうか.マルクスによれば,「労働生産物の使用価値を捨象する Abstrahiren」ことによって同時に「労働生産物を使用価値にする物体的な諸成分と諸形式をも捨象する abstrahiren」ことになるのだが,かくして労働生産物の「感性的性状が抹消される」のみならず,この抽象化作用に伴って「指物労働や建築労働や紡績労働やその他のある特定の労働」のような「これらの労働の様々な具体的な konkreten 諸形式もまた消失する」という.つまり,ここで「抽象的人間的労働」の「抽象的」とは,「これらの労働の様々な具体的な諸形式」という具体的な側面が消失したという事態と,その消失をみちびくところの労働生産物の使用価値の捨象(抽象化)という二つの側面を示していると言えるのではないだろうか.

*1: ちなみに,一つ前のパラグラフに遡ってみると,ドイツ語初版では「同じ価値 derselbe Wert」とされていた箇所が,ドイツ語第二版以降では「同じ大きさの一つの共通のもの ein Gemeinsames von derselben Grösse」と変更されていることがわかる.
*2: 井上康・崎山政毅は「「それ〔sie〕」は,当然ながら,冒頭の「実体〔die Substanz〕」である」(井上・崎山2017: 101)と述べているが,この「それ〔sie〕」は直前の「ある一つの商品〔eine Waare〕」を指しているのではないか.どうして井上・崎山が「当然ながら」冒頭の「交換価値の実体」を指していると考えるのか,私には皆目検討がつかない.

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