第一部 資本の生産過程(承前) 労働の測度単位としての単純平均労働 次の箇所もドイツ語初版とドイツ語第二版以降とでは明らかに文章が異なるので,それぞれ個別に考察していこう.
(1)ドイツ語初版
価値 としては商品は結晶化した労働 に他ならない.労働の測度単位そのものは単純平均労働 であり,その〔単純平均労働の〕性格は,たしかに多様な国々や文化時代において変化するが,眼前の一社会では所与である.より複雑な労働は,冪乗の 〔単純労働〕あるいはむしろ乗数の 単純労働としてのみ通用するのであって,例えば,複雑労働のより小さな量は単純労働のより大きな量と等しい.この還元がいかにして 調整されるのかということは,ここではどうでもよい.その還元が絶えず行われていることは,経験が示している.ある商品は,最も複雑な労働の生産物である可能性がある.その価値 はそれ〔商品〕を単純労働生産物と等置して,そのためにそれ自体ただ単純労働の一定量だけを表現している.
(Marx1867: 4) マルクスによれば,商品を価値として考察した場合,商品は「単純平均労働」という「労働の測度単位」に還元されるという.この「単純平均労働」を適切に扱うためには,第一に,その「平均」の母数がどの範囲にまで及ぶものなのか,そして第二に,「単純」というからにはそれに対する「複雑」なものはどのように扱われるのかが問題となり得る. 第一に,この「単純平均労働」は,絶対的な値ではない.それは「多様な国々や文化時代において変化する」のである.しかし,「単純平均労働」が,地域や文化背景によって様々に変化する変数であるということは,それを取り扱うことができないことを意味しない.というのも,それが「眼前の一社会では所与である」以上,イングランドやフランスなどの特定の社会に考察を限定すれば,定数 として取り扱うことが可能だからである. 第二に,「より複雑な労働」といえども,これは結局のところ「単純平均労働」に還元可能である.というのも,マルクスが「より複雑な労働は,冪乗の potenzirte あるいはむしろ乗数の multiplicirte 単純労働としてのみ通用する」と述べているように,「より複雑な労働」はいくつかの「単純労働」を掛け合わせたものに分解できるからである.
人間的労働と価値の共同社会性 (2)ドイツ語第二版
そこで我々は労働生産物の残滓を考察してみよう.そこに残っているのは,同じ亡霊的な対象性以外の何物でもなく,それは無差別的な人間的労働の純然たる凝固物,すなわちその支出の形式を無視した人間的労働力の支出の純然たる凝固物に他ならない.これらの諸物はもはや,それらの生産に人間的労働力が支出されており,人間的労働が積み上げられているということをただ表現しているに過ぎない.こうしたそれらの労働生産物における共同体的社会的実体の結晶として,それらの労働生産物は——価値である.
(Marx1872a: 13) (3)フランス語版
そこで今度はこれらの労働生産物の残滓を考察してみよう.それぞれの労働生産物は,他の労働生産物に完全に酷似している.どの労働生産物にも,同じ亡霊的な実在性が存している.同一の昇華物,同じ無差別的な労働という原器に変態されたこれらの対象はすべて,もはや一つの事柄しか表わさない.それは,それらの生産には人間的労働力が支出されており,人間的労働が蓄積されていることだけである.この共同体的社会的実体の結晶として,それらの労働生産物は価値とみなされる.
(Marx1872b: 14–15,井上康・崎山政毅訳,所収『マルクスと商品語』531頁) (4)ドイツ語第三版
そこで我々は労働生産物の残滓を考察してみよう.そこに残っているのは,同じ亡霊的な対象性以外の何物でもなく,それは無差別的な人間的労働の純然たる凝固物,すなわちその支出の形式を無視した人間的労働力の支出の純然たる凝固物に他ならない.これらの諸物はもはや,それらの生産に人間的労働力が支出されており,人間的労働が積み上げられているということをただ表現しているに過ぎない.こうしたそれらの労働生産物における共同体的社会的実体の結晶として,それらの労働生産物は——価値である.
(Marx1883: 5,岡崎次郎訳『資本論①』77頁) このパラグラフの最後にある「価値 Werthe」という箇所は,既存の訳では「商品価値」となっている.実際,『資本論』第四版(1890年)を底本にしているMarx-Engels-Werkeでは,最後の言葉は"Warenwerte"(MEW, Bd.23, S. 52.)となっている.どうしてエンゲルスがこの箇所を「商品価値」と訂正したのかは分からないが,少なくともマルクスの生前の版では,この箇所はもともとずばり「価値 Werthe」(つまり交換価値)と表記されていたことが確認できればよい. 「残滓 Residuum」というのは,食べ物の残りかすなどを指すときに用いる言葉である.ここでは「労働生産物」から使用価値とか物理的な要素とかあらゆる属性を取り除いていったときにまだなおそこに残るものを指している.「労働生産物」はその名の通り,人間の労働 によって産み出された物であるから,「労働生産物」から物体的な規定を取り除いたときにそれでもなおそこに抽象的に残っている規定が「人間的労働力の支出」だというのは,或る意味でトートロジーであるし観念的である. 「同じ亡霊的な対象性 dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit」というのはどういうことか.例えば,「人間的労働」は,人々が工場で素材を加工する作業であれ食物を調理する仕方であれ,こうした様々な形式で行われる.だが,ここでは労働の多様な形式をいっさい考慮せずに無視して,すべての労働を同じものとして取り扱うのである.労働の具体性を捨象して,労働生産物に対して人間の労働力が支出されているという抽象的な事態のことをマルクスは「同じ亡霊的な対象性」と表現しているのである. このように抽象化された「人間的労働力」という概念はそれ自体が常に既に「共同体的社会的」なものである.
「労働時間」によって計られる「価値」 (1)ドイツ語初版
それゆえ,ある使用価値または財貨が一つの価値 を持っているのはただ,労働 がそれに対象化 または物質化 されているからでしかない.では,それの価値の大きさ はどのようにして計られるのか? それに含まれる「価値形成実体」,すなわち労働の量 によってである.労働の量そのものは,労働の継続時間 で計られ,労働時間 はまた一時間とか一日とかいうような特定の時間部分 をその度量標準としている.
(Marx1867: 4–5) (2)ドイツ語第二版
諸商品の交換関係そのもののなかでは,商品の交換価値は我々にとってその使用価値からまったく独立したものとして現象した.そこで,現実的に労働生産物の使用価値を捨象してみれば,ちょうどいま規定されたような労働生産物の価値が得られるのである.商品の交換関係または交換価値において表現されている共通物は,それゆえ,商品の価値である.研究の進行は,我々を,価値の必然的な表現様式または価値の現象形式としての交換価値につれもどすことになるであろう.しかし,この価値は,さしあたりまずこの形式とは独立に考察されなければならない. それゆえ,ある使用価値または財貨が一つの価値を持っているのはただ,抽象的人間的労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない.では,それの価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれる「価値形成実体」,すなわち労働の量によってである.労働の量そのものは,労働の継続時間で計られ,労働時間はまた一時間とか一日とかいうような特定の時間部分をその度量標準としている.
(Marx1872a: 13) (3)フランス語版
交換関係のうちに,あるいは諸商品の交換価値のうちに現われる共通の各々の物は,したがって,それら諸商品の価値である.こういうわけで,使用価値または財貨は,人間的労働がそのうちに物質化されているかぎりにおいてのみ,価値をもつのである. では,その価値量はどのようにして計られるのであろうか?それらに含まれる「価値形成」実体,すなわち労働の量 によってである.労働の量そのものは,労働時間を尺度とし,労働時間はまた時間や日などというような一定の時間部分をその尺度としている.
(Marx1872b: 15,井上康・崎山政毅訳,所収『マルクスと商品語』531・533頁) (4)ドイツ語第三版
諸商品の交換関係そのもののなかでは,商品の交換価値は我々にとってその使用価値からまったく独立したものとして現象した.そこで,現実的に労働生産物の使用価値を捨象してみれば,ちょうどいま規定されたような労働生産物の価値が得られるのである.商品の交換関係または交換価値において表現されている共通物は,それゆえ,商品の価値である.研究の進行は,我々を,価値の必然的な表現様式または価値の現象形式としての交換価値につれもどすことになるであろう.しかし,この価値は,さしあたりまずこの形式とは独立に考察されなければならない. それゆえ,ある使用価値または財貨が一つの価値を持っているのはただ,抽象的人間的労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない.では,それの価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれる「価値形成実体」,すなわち労働の量によってである.労働の量そのものは,労働の継続時間で計られ,労働時間はまた一時間とか一日とかいうような特定の時間部分をその度量標準としている.
(Marx1883: 5,岡崎次郎訳『資本論①』77〜78頁) ドイツ語初版と第二版以降を見比べてみると,第二版以降では一つのパラグラフが追加されていることがわかる.この追加されたパラグラフは,全体の流れを整理するような内容である.そこでマルクスは交換価値を「現象形式」と呼び,「商品の価値」と区別している.この違いはどこにあるのだろうか.結論から言えば,「現象形式」としての交換価値は,諸々の商品が等式として現われるような表現様式である.これに対して「商品の価値」と端的に言う場合の「価値」は,無差別な労働力が支出されていることが背景としてある.「現象形式」としての交換関係については,需要と供給の関係で変動する「相対的なもの」として認識されているが,これに対して,端的に「価値」という場合にはその背後に「人間的労働の支出」が前提とされており,その限りで「価値」は相対的ではなくむしろ「労働時間」という単位で測定されうるものとして存在するのである.
社会的平均労働時間と価値の低落 (1)ドイツ語初版
ある商品の価値がその生産中に支出された労働量によって規定されているとすれば,ある人が怠惰または不熟練であればあるほど,彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの労働時間を必要とするので,彼の商品はそれだけ価値が大きい,というように思われるかもしれない.しかし,社会的必要労働時間 だけが,価値形成的なものとして数えられる.社会的必要労働時間とは,現存する社会的‐標準的生産条件と,労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって,なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である.たとえば,イギリスで蒸気織機が採用されてからは,一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう.イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが,彼の個人的労働時間の生産物は,いまでは半分の社会的労働時間を表現するにすぎなくなり,そのために,それの以前の価値の半分に低落したのである.
(Marx1867: 5) (2)ドイツ語第二版
ある商品の価値がその生産中に支出された労働量によって規定されているとすれば,ある人が怠惰または不熟練であればあるほど,彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので,彼の商品はそれだけ価値が大きい,というように思われるかもしれない.しかしながら,諸価値の実体を形成する労働は,同等の人間的労働であり,同じ人間的労働力の支出である.商品世界の諸価値へと表現される社会の総労働力は,無数の個人的労働力から成っているのではあるが,ここでは一つの同じ人間的労働力とみなされる.これらの個人的労働力のおのおのは,それが一つの社会的平均‐労働力という性格をもち,このような社会的平均‐労働力として作用し,したがってある商品の生産においてもただ平均的に必要な,または社会的必要労働時間だけを必要とするかぎり,他の労働力と同じ人間的労働力である.社会的必要労働時間とは,現存する社会的‐標準的な生産条件と,労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって,なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である.たとえば,イギリスで蒸気織機が採用されてからは,一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう.イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが,彼の個人的な労働時間の生産物は,いまでは半分の社会的労働時間を表現するにすぎなくなり,そのために,それの以前の価値の半分に低落したのである.
(Marx1872a: 13–14) (3)フランス語版
ある商品の価値がその生産中に支出された労働の量 (quantum)によって規定されているとすれば,ある人が怠惰または不熟練であればあるほど,彼はその商品の製造にそれだけ多くの時間を用いるので,彼の商品はそれだけ価値が大きい,というように想像するかもしれない.しかし,商品の価値の実体を形成する労働は,目に見えない均一な労働であり,同じ〔労働〕力の支出である.価値の総体に顕現したすべての社会全体の労働力は,無数の個人的な〔労働〕力から構成されているにもかかわらず,結果的には単一の〔労働〕力としてしか数えられない.個人的労働力のおのおのは,平均的な社会的〔労働〕力という性格をもち,そのように機能するかぎりにおいて,他のすべての労働力と均一である.すなわち,平均的に必要な労働時間または社会的必要労働時間だけが商品の生産に用いられるのである. 諸商品の生産に社会的に必要な時間とは,労働の熟練および強度の平均度とをもって,所与の社会環境との関係では通常の条件で行われる,全ての仕事に必要となる時間である.イギリスで蒸気織機が採用されてからは,一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう.イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが,それ以後は,彼の個人的労働時間の生産物は,社会的労働時間の半分しか表現せず,当初の価値の半分しか得られなかったのである.
(Marx1872b: 15) (4)ドイツ語第三版
ある商品の価値がその生産中に支出された労働量によって規定されているとすれば,ある人が怠惰または不熟練であればあるほど,彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので,彼の商品はそれだけ価値が大きい,というように思われるかもしれない.しかしながら,諸価値の実体を形成する労働は,同等の人間的労働であり,同じ人間的労働力の支出である.商品世界の諸価値へと表現される社会の総労働力は,無数の個人的労働力から成っているのではあるが,ここでは一つの同じ人間的労働力とみなされる.これらの個人的労働力のおのおのは,それが社会的平均‐労働力という性格をもち,このような社会的平均‐労働力として作用し,したがってある商品の生産においてもただ平均的に必要な,または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり,他の労働力と同じ人間的労働力である.社会的必要労働時間とは,現存する社会的‐標準的生産条件と,労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって,なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である.たとえば,イギリスで蒸気織機が採用されてからは,一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう.イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが,彼の個人的労働時間の生産物は,いまでは半分の社会的労働時間を表現するにすぎなくなり,そのために,それの以前の価値の半分に低落したのである.
(Marx1883: 5–6,岡崎次郎訳『資本論①』78〜79頁) ここでマルクスは「価値」の算出において想定されうる疑問について答えている.商品価値が労働時間によって計られるとすれば,労働時間がより長くかかった商品の方が価値はより高くなり,労働時間がより短くかかった商品の方が価値はより低くなると考えられる.しかしその場合には『通常よりもゆっくりと時間をかけて作った商品の方が,価値は高くなるのか』という疑問が生じてくる.それを行うのに時間がかかる原因としては,技術が優れていて丁寧にやっているという場合と,そもそも技術的に下手で速く作業できない場合という二つ原因が考えられる.結果として同じ商品を作るにしても,工業機械によって高速に大量生産されたものと,一人の職人が手塩をかけてじっくり作ったものと,さらに下手な素人が長い時間をかけて作り上げたものとでは,それぞれ商品生産過程が異なっている.では,その場合に商品の価値は同じなのだろうか,それとも異なるのだろうか.この点を説明するためにマルクスは「社会的必要労働時間」と「個人的労働時間」という概念を提示している.「社会的必要労働時間とは,現存する社会的‐標準的生産条件と,労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって,なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である」.要するに,工業生産であれ個人的生産であれその商品を生産するすべての労働を社会的に総合した上で,その商品を生産するのにかかる平均的な労働時間を「社会的平均労働時間」とマルクスは呼び,これに対して,個々には長かったり短かったりする個別の労働時間のことを「個人的労働時間」とマルクスは呼んで区別している.「価値」の算出においては「個人的労働時間」は一切捨象され,「社会的平均労働時間」だけが用いられる.この「社会的平均労働時間」は,イギリスの蒸気織機の例にみられるように,機械の導入によって短縮されることがあり得る.以前よりも短縮された「社会的平均労働時間」は,その商品の「価値」を引き下げ,これは同時に,他の場所でいまだその生産過程に機械を導入していない同一商品の価値にも影響を及ぼすのである.
社会的必要労働時間の量によって規定される価値の大きさ (1)ドイツ語初版
それゆえ,その価値の大きさ を規定するものは,ただ,社会的必要労働の量 ,すなわちある使用価値の産出 のための社会的必要労働時間だけである.個別の商品は,ここではおよそ,その種の平均的見本とみなされる¹⁰.そのため,等しい大きさの労働量が含まれている諸商品,または同じ労働時間で 産出されることができる諸商品は,同じ価値の大きさ を持っている.一商品の価値が他の各商品の価値に対する相関関係は,一方の〔商品の〕生産に必要な労働時間が他方の〔商品の〕生産に必要な労働時間に対する相関関係と同様である.「価値としては,すべての商品は,凝固した労働時間の 特定のかたまりに過ぎない」¹¹.
(Marx1867: 5) (2)ドイツ語第二版
それゆえ,その価値の大きさを規定するものは,ただ,社会的必要労働の量,すなわちある使用価値の産出のための社会的必要労働時間だけである⁹.個別の商品は,ここではおよそ,その種の平均的見本とみなされる¹⁰.そのため,等しい大きさの労働量が含まれている諸商品,または同じ労働時間で産出されることができる諸商品は,同じ価値の大きさを持っている.一商品の価値が他の各商品の価値に対する相関関係は,一方の〔商品の〕生産に必要な労働時間が他方の〔商品の〕生産に必要な労働時間に対する相関関係と同様である.「価値としては,すべての商品は,凝固した労働時間の特定のかたまりに過ぎない」¹¹.
(Marx1872a: 14) (3)フランス語版
それゆえ,価値の量を規定するものは,ただ,労働の量 (quantum),すなわち,ある所与の社会において,ある品物の生産に必要な労働の量だけである¹.どの個別の商品もおよそ,その種の平均的見本とみなされる.したがって,等しい労働量が含まれている諸商品,または同じ時間で生産されることができる諸商品は,等しい価値を持つのである.一商品の価値は他のいかなる商品の価値に対しては,一方の〔商品の〕生産に必要な労働時間が他方の〔商品の〕生産に必要な労働時間に対するのと,同じ相関関係にある.
(Marx1872b: 15) (4)ドイツ語第三版
それゆえ,その価値の大きさを規定するものは,ただ,社会的必要労働の量,すなわちある使用価値の産出のための社会的必要労働時間だけである⁹.個別の商品は,ここではおよそ,その種の平均的見本とみなされる¹⁰.そのため,等しい大きさの労働量が含まれている諸商品,または同じ労働時間で産出されることができる諸商品は,同じ価値の大きさを持っている.一商品の価値が他の各商品の価値に対する相関関係は,一方の〔商品の〕生産に必要な労働時間が他方の〔商品の〕生産に必要な労働時間に対する相関関係と同様である.「価値としては,すべての商品は,凝固した労働時間の特定のかたまりに過ぎない」¹¹.
(Marx1883: 6,岡崎次郎訳『資本論①』79頁) このパラグラフでは最初に「社会的必要労働の量 das Quantum gesellschaftlich nothwendiger Arbeit」(ドイツ語初版),「労働の量 le quantum de travail」(フランス語版)という箇所が強調されている.他方でマルクスは「価値の大きさ Werthgrösse」という言い方もマルクスはしている.岡崎次郎訳では,"Quantum"も"Grösse"もどちらも「量」と訳されているが,注意深く読むと,マルクスは「社会的必要労働」に対しては"Grösse"ではなく"Qutantum"を用い,「価値」に対しては"Quantum"ではなく"Grösse"を用いている.つまり日本語では同じ「量」と言っても,マルクスは"Quantum"と"Grösse"とを明確に使い分けているのである.
文献 Marx, Karl, 1867, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Hamburg. (Bayerische Staatsbibliothek, 2014)
Marx, Karl, 1872a, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Zweite verbesserte Auflage, Hamburg. (British Library, 2016)
Marx, Karl, 1872b, Le capital, traduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur, Paris. (University of Oxford, 2006)
Marx, Karl, 1883, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Dritte vermehrte Auflage, Hamburg. (University of Michigan, 2006)
マルクス,カール 1972『資本論』岡崎次郎訳,大月書店.
井上康・崎山政毅 2017『マルクスと商品語』社会評論社.