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ヘーゲル『法の哲学』試論—「世界歴史」篇

はじめに

 以下では,ヘーゲル『法の哲学』における「世界歴史」の位置付けについて見ていきたい.
 ヘーゲルの「世界史の哲学」,あるいは「歴史哲学」については,ヘーゲルの講義録で詳しく述べられているが,当然ながら講義録そのものはヘーゲル自身が公刊したものではない.ヘーゲル自身が公刊した『法の哲学』のうちに描かれている「世界歴史 Weltgeschichite」の独自性は,いわゆる『歴史哲学講義』のように独立したテーマとしては描かれていない点に,つまり彼の法哲学体系うちに組み込まれた位置付けにあるのではないか.この点に留意しつつ内容を見ていこう.

ヘーゲル『法の哲学』第3部「人倫」第3章「国家」(承前)

なぜ「世界歴史」は『法の哲学』の最後に位置付けられているのか

 「世界歴史」は,『法の哲学』においては三重の意味で最後に位置付けられている.「三重の」と私がいうのは,それが『法の哲学』第3部「人倫」第3章「国家」C.の箇所に位置付けられているからである.
 なぜ「世界歴史」は『法の哲学』の最終部の最終章の最終節に位置付けられているのだろうか.
 その答えの一つは『法の哲学』の叙述様式にあるように思われる.『法の哲学』の構成では,第1部「抽象法」から第2部「道徳性」を経て,第3部「人倫」に至る.叙述は「抽象的なもの」から「具体的なもの」へと進んでいく.ということは,「世界歴史」が本書の最後に位置付けられているのは,「世界歴史」が「具体的なもの」の最たるものであるからではないか.

「世界法廷」としての「世界歴史」

 『法の哲学』C「世界歴史」に先行する箇所は第340節である.ここでは「民族精神 die Volksgeister」と「世界精神 der Geist der Welt」とが対比的に描かれている.

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 第340節
 国家相互の関係においては,諸国家が特殊的なものとして存在するから,ここには,情念,利益,目的,才能や徳,暴力,不法や悪習という内的特殊性と,同様に外的偶然性が現象のほとんどの場面にわたって跋扈している.——これらが跋扈する場面では,人倫的全体そのもの,すなわち国家の独立性が偶然性にさらされることになる.諸民族精神の諸原理は,それぞれの特殊性において,現実存在する個体としてのその客観的現実性と自己意識とをもつのであるが,その特殊性のために一般に制限されたものであり,そしてそれら相互の関係における運命と行果は,これらの民族精神の有限性が現象する弁証法である.この弁証法から,普遍的精神,すなわち世界の精神が無制限なものとして出現するとともに,みずからの法を——そしてこの法は最高の法である——世界法廷としての世界歴史において諸民族精神に対して行使するのが,この世界精神なのである.

(Hegel1820: 342-343,上妻ほか訳(下)357〜358頁)

ここで注意しなければならないのが,「民族精神 Volksgeister」が複数形である点である.一つ一つの「民族精神」はいわば地域に根ざしたものであって,いわばエスニックな概念である.諸々の「民族精神」は諸々の「国家 Staaten」と同様に「特殊的」である.「国家」が「特殊的」なのは,或る国家に並んで主権性を有する他の国家との関係においてである*1.
 「世界精神」が登場するのは「これらの〔民族〕精神の有限性が現象する弁証法」からであると述べられている.なぜ「弁証法 Dialektik」なのかというと,「民族精神の有限性」から「世界精神」の無制限性が導出されているからである.「世界精神」の無制限性,普遍性は,「民族精神」のような地域性を超越している.
 ここで「世界歴史 Weltgeschichte」が「世界法廷 Weltgericht」として登場する.ちなみに「裁判〔=法廷〕 Gericht」の概念については,『法の哲学』第3部「人倫」第2章「市民社会」C「裁判」で扱われている.「世界法廷」はこの「裁判=法廷」概念を踏まえていると思われるので,以下の節を引用する.

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C 裁判〔=法廷〕
 第219節
 法律という形式で定在するにいたった法〔権利〕は,対自的であり,法〔権利〕についての特殊的意志意見に対して自立的に対立していて,みずからを普遍的なものとして妥当させなければならない.特殊的な利害関係についての主観的な感情を抜きにして,特殊的な事件に即して法〔権利〕を認識し実現することは,公的な威力である裁判に属している.

(Hege1820: 217,上妻ほか訳(下)136頁)

法律というのは,そこに法律として書かれてあるだけでは不十分であり,個別のケースについては法律に則って判断して適用するための機関が必要である.その役割を果たすのが「裁判〔=法廷〕」である.「裁判〔=法廷〕」に出廷するのは「市民社会の成員」である.「世界法廷」としての「世界歴史」において,この「市民社会の成員」にあたるのが,諸々の「民族精神」である.
 先行する「市民社会」章における「裁判〔=法廷〕」概念の記述が,第340節において「世界歴史」を「世界法廷」として描き出すための要である.そして「民族精神」の枠内に収まっている「国家 Staat」概念の記述が,「民族精神」の枠組みを超える「世界精神」の観点を描くことを可能にしている.その限りで,C「世界歴史」はやはり『法の哲学』第3部「人倫」第3章「国家」の最終節に位置付けられるに相応しいと言えるであろう.

「世界歴史」における「普遍的精神」

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C 世界歴史
 第341節
 普遍的精神が定在する境位は,芸術においては直観と像,宗教においては感情と表象,哲学においては純粋で自由な思想であるが,世界歴史においてはその内面性と外面性の全範囲にわたる精神的現実性である.世界歴史はひとつの法廷である.なぜなら,この法廷の即自かつ対自的に存在する普遍性のうちでは,多彩な現実性を具えた特殊的なもの,ペナーテース神,市民社会,諸民族〔国民〕精神がただ観念的なものとして存在しており,そしてこの境位における精神の運動は,この観念的なものを表現することであるからである.

(Hegel1820: 344,上妻ほか訳(下)358頁)

「即自かつ対自的に存在する普遍的精神」というのは,いわば最も高次の観点(絶対者)から見渡している精神であり,その観点から「芸術」や「宗教」や「哲学」などの様々な分野が扱われうる.詳しくは,「芸術」についてはヘーゲルの『美学講義』,「宗教」についてはヘーゲルの『宗教哲学講義』,「世界歴史」についてはヘーゲルの『世界史の哲学講義』が参照されるべきであるが,ここではヘーゲルの講義録には立ち入らない.
 ここでもヘーゲルは「世界歴史」を「ひとつの法廷」に見立てているが,かつて「世界歴史」を「ひとつの法廷」に見立てた人物がヘーゲル以外に居ただろうか.「法廷」であるからには判決を下す者(裁判官)と裁かれる者がいると考えがちであるが,終末論的な「最後の審判」が想起されるべきかもしれない.
 ヘーゲルが先に「特殊的な利害関係についての主観的な感情を抜きにして,特殊的な事件に即して法〔権利〕を認識し実現することは,公的な威力である裁判〔=法廷〕に属している」(第219節)と述べていたことを踏まえると,「世界法廷」としての「世界歴史」にも同じく「法〔権利〕を認識し実現すること」が属していると考えるのが妥当であろう.

(つづく)

*1: ただし,「ネイション」と「ステイト」の枠組みが等しく一致するものではないのと同様,「民族精神」と「国家」の枠組みもまた等しく一致するものではないだろう.

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