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『葉隠』は「武士道といふはヤル気と見付けたり」なのです

武士道といふは死ぬ事と見付けたり。二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ〳〵の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死改めては死、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。(聞書第一 105ページ)

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有名な箇所ですが、ここに大きなトリックがあるのです。

我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。

理がつくのは「生る」ほうなのです。ということは「死ぬ」は理にあらず、不合理、非合理なのです。また理屈の反対は行動なのです。「死ぬ方は理が付くべからず(死ぬことは正当化できない・してはいけない)」「武士道といふは理に非ずと見付けたり」「武士道といふは行ふ事と見付けたり」なのです。

二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。

「早く、死ぬ方に片付ばかり也」なのです。迷ったときは理屈ではなく一か八かで即行動するのです。明日死んでも悔いのないようにするのです。武士道は「今一番大事なことをやろう!」、みなぎるヤル気、Viva! Spark!なのです。

本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。葉とは「言の葉」言葉を意味するとも言われている。

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葉隠れに 散りとどまれる 花のみぞ 忍びし人に 逢ふ心地する(西行)

葉に隠れているのは「」なのです。「忍ぶ」と「偲ぶ」が掛詞になっていて、会わず(会えず)に想っているだけなのです。西行の歌は「散らずに残り、葉に隠れている花が見えたとき、想い人に会えたような感じが湧く」ですが、『葉隠』のようなトリックがわかったときも似た心地がするのです。これはプラトンの時代からあった技法で、理由があって隠されてきたのです(今や事情が変わったのですが)。自分で気づいた人はほとんどが作家になるのですが、学者は頭が悪いので文学研究をしているくせに知っている人はまれにしかいないのです。

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恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死にする事こそ恋の本意なれ。(聞書第二 166頁)

さて、イチジク(無花果)の葉が隠すのも「花」なのです。「忍びし人」というとプラトニックラブな感じですが、原理はパンチラとおなじなのです。また、会わないのだから二次元でもいいのです。ゲーテ『ファウスト』もおなじことを書いており

毎朝毎夕、改めては死改めては死、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。

「死ぬ事」とは「かはつむり」なのです。昇天なのです。一生忍んで思ひ死になのです。結婚してもbbaになるだけだからやめとけということでしょう。

我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。

「かはつむり」は「生る」実感、elan vitalなのです。こちらの方に「理が付く」のです。

図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。

図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。

「図に当たる」はもうおわかりですね。

兼好・西行などは、腰ぬけ、すくたれ者なり。武士業がならぬ故、抜け風をこしらへたるものなり。

武士業とはなんのことか、なぜ西行を悪しざまに言うのかもおわかりかと思います。

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の一句があまりにも有名な「葉隠」。過激思想の書と誤解されやすいが、その真髄は「死という劇薬」こそが自由や情熱、生きる力を与えるという逆説的な「生の哲学」――。(三島由紀夫『葉隠入門』裏表紙)

これは決して間違いではないのですが、本体ではないのです。三島に勝つる!彼も「技法」はご存じなんですけどねえ。

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それにしても「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」とはひどい煽りなのです。煽り厨の東の横綱は山本常朝、西の横綱はニーチェなのです。ニーチェ曰く「およそ到達しうる最高の肯定の形式」である「永劫回帰Ewig Wiederkehren」は、wiederkehren=wiederkommenなので、英語だとeternal come-againなのです。たしかにこれでは「超人」でなければ体力がもたないのです。ewigは『ファウスト』の最後の「永遠にして女性的なるものDas Ewig-Weibliche」をパクっているのです。『ツァラトゥストラ』の「詩人について」でこの箇所に言及し、「詩人と女は嘘つきだ」と書いてます。

Gewiss, man findet Perlen in ihnen: um so ähnlicher sind sie selber harten Schalthieren. Und statt der Seele fand ich oft bei ihnen gesalzenen Schleim.
たしかに、詩人のなかに真珠をみつけることもあろう。だからこそ彼らは堅い殻を持った生き物に似ている。そしてわたしはよく彼らのなかに、魂ではなく塩辛い粘液を見出した。(河出文庫)
たしかに、真珠のような詩人もいる。しかしそれより詩人は、硬い甲殻類にもっと似ている。魂のかわりに俺がしばしば見つけたのは、塩辛い粘液だった。(光文社古典新訳文庫)

Schalthierenは貝や甲殻類のことです。ニーチェのThier動物は古い綴りですが英語のtheirとのダジャレです。新しい綴りのTierはやはり英語のtier階層とのダジャレで「古くは動物は友だちだったが、進化論のせいで人間>動物になった」という含意があります。の中には真珠と粘液があり、形もなんとなくイメージさせます。見つからなかった魂Seeleは英語ではspirit精なのです。これでもう疑いの余地はないのです。

こういうトリックを使う人はどういうわけか考えることがまったくおなじなのです。古くからの親友のような気がしてしかたがないのです。おそらく脳にビルトインされているのです。政治哲学の人が「ポリス的共同体」を持ち出す場合、こういう親しみが念頭にあることがたまにあるのです(そうでない場合のほうがはるかに多いが)。

腐女子のハンナ・アーレントも人間homoとホモ(セクシュアル)、ポリスpolisとお〇ん〇んpolesを軸にダジャレを展開しているのです。アーレントといえば「悪の陳腐さbanality of evil」が有名ですが、同格のofとし「陳腐さすなわち悪」という意味があります。また世間ではevilはアイヒマンのことだと思い込んでいますが、banalityの語源はbanだから「アイヒマンを処刑」「悪による処刑」の多義性があります。技法の達人のアーレントがこんな「偶然」を見逃すはずはありません。ユダヤ人のアーレントは私刑まがいの裁判をした同胞をナチスの同類だと非難しているのです。これで「隠されてきた理由」がおわかりだと思います。

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プラトンに戻って来るのです。

想起説が導入されることでプラトンの哲学は、劇的な展開をとげ、強固な二元論の立場となった。そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、真の philosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。

ウィキペディア「イデア

魂はギリシャ語でΨυχή、もともとは「息」でしたが、英語だとspiritです。「できるかぎりその魂を身体から分離開放し」というのはつまり穴の中には出さないということで、「イデア」はオ〇ペットのことです。思い死になのです。sophiaは「知恵」つまりダジャレ、「死の練習」はみなさんが励んでいるやつのことです。

古代ギリシャのプラトンと、日本の江戸時代の山本常朝はまあ兄弟みたいなアホなのです。

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