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『ファウスト』はダジャレ野郎ゲーテのアホ戯曲なのです

ゲーテは『ファウスト』に「だまし」を仕掛けています。そのため既存の翻訳も解説も研究も全滅です。かいつまんで説明します。引用元は岩波文庫です。

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プロローグで神様と悪魔メフィストフェレスが賭けをします。

そしてお前がやがてこう白状せねばならなくなったら恥じ入るがよい。
善い人間は、よしんば暗い衝動に動かされても、
正しい道を忘れてはいないものだと。(上巻、kindle, 7%)

最後にファウストが天使のラブファイヤーに焼かれます。

それでも自分の本性を見究め、自分と自分の血筋を
信頼すれば、これでも凱歌を奏することができる。
悪魔のなかの高尚な部分は助かったし、
愛のお化けなんかは、皮膚に取り付いただけだ。
忌まわしい炎はもう燃えつきた。そこで、
当然のこととして、お前たち全体を呪ってやる。(下巻、kindle 84%)

神様は悪魔を人間呼ばわりしてバカにしていますが、予言どおりになりました。悪魔なのに「善い人間」とはなんたる屈辱。このあとメフィストフェレスはファウストの魂を天使に横取りされます。この「悪魔=人間」が『ファウスト』読解の肝心です。

プロローグの終わり:

悪魔を相手に、あれほど人間らしく口をきいてくれるとは、
しかし大旦那として感心なものだ。(上巻、kindle, 7%)

ちゃんと「人間らしく」と書いてあります。

プロローグの賭け:

あれ(=ファウスト)が地上に生きているあいだは、
それ(=メフィストフェレスの干渉)も別に差止めはしない。
人間は、努力をする限り、迷うものだ。(上巻、kindle, 7%)

最後の原文は

Es irrt der Mensch so lang er strebt.

で、strebenが「努力する」と訳されていますが、この動詞には「抗う」という意味もあり、こちらが正しい。人間=悪魔なので

悪魔が神様に抗って小細工したところで失敗するのがオチだ

となります。岩波よりこちらのほうがつながりがいいです。神様が干渉しないとは一言もいっていません(ファウストを盲目にする「灰色の女」が神様の干渉だと思われます)。

ファウストの救済:

霊界の気高い人間が
悪から救われました。
「絶えず努め励むものを
われらは救うことができる。」
それにこの人には天上の
愛が加わっているのです。
祝福された人々の群れが
歓んでこの人を迎えるでしょう。(下巻、kindle, 85%)

「」内の原文は

Wer immer strebend sich bemüht,
Den können wir erlösen.

ですが、訳注がついています。

この二行はファウスト全曲のモットーともいうべき重要な文句である。自力による努力と天上からの愛と、両者によってファウストは救われるのである。

この二行も「だまし」で、strebenは「努力する」ではなく「抗う」です。悪魔に抗っていれば神様が救うことができるという意味です。ちゃんと

おれには手ごわく逆らった男だが、(下巻、kindle, 81%)

と言及があります。

「この句に、」と彼は言った。「ファウスト救済の鍵がある。ファウスト自身には、ますます高くますます清らかならんとする死に至るまでの活動、空からは彼を救わんとする永遠の愛。(エッカーマン『ゲーテとの対話』1831年6月6日)

ゲーテはエッカーマンをケムに巻きつつヒントを出しています。

プロローグ:

あれ(=ファウスト)は今のところは混沌たる気持でわしに仕えているが、
やがて澄明の境へ導いてやろうと思っている。

ファウストが悪魔に抗ったので、神様は最初の心づもりのとおりに彼を救済しました。それだけです。

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ファウストはメフィストフェレスと賭けをします。

私がある瞬間に対して、留まれ、
お前はいかにも美しい、といったら、
もう君は私を縛りあげてもよい、
もう私はよろこんで滅びよう。(上巻、kindle, 28%)

このゆーめーな文句の原文は

Zum Augenblicke dürft' ich sagen:
Verweile doch, du bist so schön!

です。ここでは岩波の意味であっています。

おれもそのような群衆をながめ、
自由な土地に自由な民と共に住みたい。
そうなったら、瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう。
留まれ、お前はいかにも美しいと。
この世におけるおれの生涯の痕跡は、
幾千代を経ても滅びはすまい。--
このような高い幸福を予感しながら
おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。(下巻、kindle, 81%)

ロクなことをしてこなかった老ファウストだが、自分が命じた理想国家建設のための土地の造成の音を聞き、感極まって真人間になってしまいました。しかし彼は「灰色の女」の一人「憂いSorge」に盲目にされており、聞いたのはメフィストフェレスが彼の墓を掘らせていた音だったのです。
実はここも「だまし」で、ゆーめーな文句はファウストは自分に命じています。

今ならこう言える:
もうすこし生きろ。お前(=ファウスト)はいま輝いている!

が正しい意味です。「今なら」はzum Augenblickeの普通の意味です。「自由な土地に自由な民と共に住みたい」のだから、瞬間が止まったら困ります。
ファウストは直後に死んでしまいますが、賭けのことばを口に出してはいないし、内心では別のことを考えていたのだから、メフィストフェレスの負けで、神様が予定どおり彼を救済します。Sorgeには「憂い」のほかに「気遣い」という意味があります。ファウストを盲目にしたのは、神様の介入なのです。

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メフィストフェレスが退治されると、聖母マリア様など聖女が天からあらわれ、ファウストの魂を救済します。最後は「神秘の合唱」で終わります。

すべて無常のものは
ただ映像にすぎず。
及び得ざるもの
ここには実現せられ、
名状しがたきもの
ここには成し遂げられぬ。
永遠なる女性は
われらを引きて昇らしむ。(下巻、kindle, 86%)

新しめの翻訳や『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』は語義どおり

すべて移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩にすぎず。(新潮文庫)

となっています。「すべて移ろい行くものalles Vergängliche」は 実は『ファウスト』という作品のことです。これが「だまし」の比喩にすぎないというわけです。読んだだけではまだ「及び得ざるものdas Unzulängliche」だが、比喩を理解するとパッとひらめきました。「名状しがたきものdas Unbeschreibliche」は語義どおりなら「書くことができないもの」で、つぎの「永遠なる女性」=マリア様のことです。比喩でしかなかった作品が、ひらめきで「永遠なる女性」のリアリティを得ました。そして彼女が「われら」を天国に連れて行ってくれます。「女性」だと生々しさがないので「女」と訳すべきです。

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おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。

ファウストの人生すべては「比喩」でしたが、勘違いからとはいえ最後にそれを理解して「永遠なる女性das Ewig-Weibliche」を手に入れました。

過ぎ去った、ということに、なんの意味があろう。
それなら初めから無かったのと同じではないか。
それなのに、何かあるかのようにぐるぐる回っている。
おれはむしろ永遠の虚無のほうが好きだな。(下巻、kindle, 81%)

メフィストフェレスは「永遠の虚無das Ewig-Leere」です。これらは対になっています。

これは自力のみならずまたそれを救う神の恵みによって浄化されるというわれわれの宗教観と全く一致している。(エッカーマン『ゲーテとの対話』1831年6月6日)

この「われわれ」は

永遠なる女性は
われらを引きて昇らしむ。

の「われら」、つまり比喩がわかる人のことです。

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救済は「神の愛」ではなく恋のラブです。

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天使たちはやたらかわいくて、『プリキュア』みたいに口上を述べながらラブビームと薔薇で戦いますが、性別不明でショタっぽいです。

本当にひどくきれいだ。キスをしたくなったぞ。(下巻、kindle, 83%)

メフィストフェレスは天使の魅力にメロメロです。この場面は妙に力が入っています。

いちばん美しい意味での浄き処女。
崇拝に値するおん母。
私たちのために選ばれた女王。
神々と位を同じうするおん方。(下巻、kindle, 85%)

「神々と位を同じうする」とあるので、ゲーテのマリア様は一神教のキリスト教とは無関係ですが

三位一体論をめぐり整理された定式において、神は、一つの実体(本質、本體、希: ουσία, 羅: substantia)と、「父なる神」・「ロゴス」(λόγος) である子なる神(イエス・キリスト)・および「聖霊(聖神)」の三つの位格(希: υπόστασις, 羅: persona)において、永遠に存在すると言い表されている。

三位一体論のパロディになっています。

君(=エッカーマン)も認めてくれるだろうが、救われた霊魂が上に導かれてゆくこの結末はまとめにくかった。もし私がキリスト教会がはっきり描いてくれている姿や観念を用いて、自分の詩の構想に制限的な形式と規定とを与えなかったら、ああいう想像もつかない超感覚的なもののつかみ所がなかっただろう。(エッカーマン『ゲーテとの対話』1831年6月6日)

要はキリスト教の「イメージだけパクった」です。アニメのビジュアルをイメージすればいいでしょう。

いちばん美しい意味での浄き処女。

これがキリスト教の聖母でないなら、ヘレネーがいることからアリアドネーでしょう。ヘレネーも出てきているし。

アリアドネーという名は「とりわけて潔らかに聖い娘」を意味するので、この名からすると本来女神であったと考えられる[2]

クセノポン『饗宴』は、

第9章
性的演目と終宴
アウトリュコスとリュコンの父子が散歩のために退席しようとしていると、豪華な椅子が部屋の中に持ち込まれ、シュラクサイの男が、アリアドネーとディオニューソス夫婦の寝室を再現した演目を行うと言い出す。
まずアリアドネーに扮した踊り娘がやって来て座り、続いて笛の演奏を伴ってディオニューソス役の少年が踊りながら入ってきて、彼女の膝の上に座り、抱きしめてキスをする。
観客が盛り上がる中、二人は立ち上がって抱擁とキスを繰り返す。二人が本当に愛し合っているのではないかと観客が思うほどの迫真の演技を経て、二人は寝床へと向かうように立ち去る。
演目の興奮が残る中、未婚の者たちは結婚しようと思い、既婚の者たちは妻が恋しくなって馬を駆って帰路につく。残ったソクラテス等は、リュコン父子やカリアス等と共に散歩に出かけることにする。
この日の饗宴はこうして終わった。

こんな感じで終わります。

(23) 交戦(宴会) ピリッポスはここで、「交戦」と「宴会」の両方をもつsymbolaiという語を用いて、言葉遊びをしている。

クセノポン『ソクラテスの弁明・饗宴』船木英哲訳

『饗宴』もsymbolaiですが、同名の著作がプラトンにもあり、クセノポンはそれに対抗して書いたようです。

クセノポンがあえてソクラテスの名を用いて、しかも『ソクラテスの弁明』と同じくプラトンの同名作品(『饗宴』)に被せる格好で、こうした作品を書いた理由としては、『ソクラテスの弁明』の場合と同じく、プラトンが描くソクラテス像が、実像とかけ離れてしまっていることに対する対抗措置・修正措置という面を挙げることができる[1]。(『家政論』もまた、一説にはプラトンの『国家』に対するアンチテーゼだと言われている[2]。)

ウィキペディア「饗宴(クセノポン)」

観客が盛り上がる中、二人は立ち上がって抱擁とキスを繰り返す。二人が本当に愛し合っているのではないかと観客が思うほどの迫真の演技を経て、二人は寝床へと向かうように立ち去る。

クセノポンはプラトンをパクり、「このあと二人がsymbolai交戦する」と言いたいようです。

ニーチェの「永劫回帰Ewig Wiederkehren」は『ファウスト』の最後の場面のパクリです。wiederkehenはwiederkommenとおなじ意味で、英語に直訳するとeternal coming-againです。comeはxvideosなどでおなじみのやつです。

永遠なる女性は
われらを引きて昇らしむ

ゲーテは「オ〇ニーでイケるのは女神様のおかげである」、ニーチェは「eternal coming-againは人間の体力では不可能だから超人にならなければならない」と言っています。とても息の合った二人なのです。これが学者の知らない間テクスト性の神髄なのです。

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ゲーテの「われわれの宗教」では、「永遠なる女性」は一つの実体と「処女」「ママ」「女王様」の三つの位格において永遠に存在します。「自力」すなわち比喩を理解する人は「永遠なる女性」に救われてラブ天国に行けるが、わからない人は悪魔扱いで「永遠なる虚無」です。
アホの極みですが、偶然や誤読で「だまし」になることはありえず、ゲーテの意図に疑いの余地はありません。とくにキャッチーなセリフに罠を仕掛けているところには読者の先入観につけこむ明確な意図があります。こういった「だまし」はギリシャ・ローマ時代に起源があり、現代にも「だまし」を駆使した作品はすくなくないのですが、作家以外には知る人はほとんどいません。

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『ヒーリングっど♥プリキュア』のホームページのトップ絵は

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最後の「永遠の女」のイメージです。プリキュアのカラーリングはゲーテの『色彩論』にもとづいています。『魔法少女まどか☆マギカ』は『ファウスト』をヘビーにパクっていて、やはり最後は「永遠の女」のイメージです。

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