たまには頭のいい学者の話もしてみるのです。ジョセフ・ヒース「“自分のあたまで考えよう”的『啓蒙思想1.0』はどうして駄目なのか。ウォルドロンとサンスティーンの論争から見る『啓蒙思想2.0』が必要な理由」から
ウォルドロンの書評は長いのですが
著者が批判するのです。それにしても酷い訳なのです。
これが正しいのです。
ウォルドロンがa notoriously poor chooserと書くように、これは妻選びのことなのです。自分をソクラテスになぞらえつつ、生活にナッジが介入することの邪悪さを指摘しているのです。my current thoughtlessnessは妻と一緒でいることなのです。
自分をmakeするのは神様なので、betterは「祝福された」なのです。これはJ. S. ミルも用いたのです。非常に多義的ですが、たとえば「✨は満足な豚を不満足な人間にする祝福である」などです。
祝福された選択者は生まれ変わっても今の妻を選ぶのです。またbet-terはlotと同様、賭けと幸運は同じものであり、ナッジの対極なのです。
こちらのbetterは功利的な意味なのです。なぜなら神の祝福がa little bitはありえないのです。
someone on highは神様のことですが、ここでは選択アーキテクトを神になぞらえているのです。
my shabby intuitionsは毎度おなじみの卑猥なアレなのです。
どちらにもmyがついているので、この二つは別のものなのですが、thoughtlessは「妻の魅力に騙された」ことなのです。二つ合わせて「エロい女だと思って結婚したらアバズレだった」のです。
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教養と自律は根っこが同じなので、わかる人にはわかるし、知らない人には関係のない話ですが、知っているがわからないやつを炙り出すように書いてあるのです。
西洋の学者であるジョセフ・ヒースがクサンティッペを知らないはずがないから、頭が悪く無教養なのですが、たぶん取り立ててバカだというわけではないのでしょう。ヒースに限らず人間の知性は生き延びるには絶対的に足りないのですが、なけなしの知性をナッジが根絶やしにしてしまうというのがウォルドロンの懸念なのです。人類が存続するためには、頭を使わなければ生きていけない過酷な環境が必要であり、それはナッジに限らず科学技術が提供する安楽で安易な社会とは対極なのです。
自律とは自分の力で生きていくことなのです。それに足りないもの(人によって異なる)は共同体が提供し、それでも足りないものは社会が提供するのです。しかし自律と共同体の根源であるカント的命題つまり義務をリベラルが殺してしまったため、どうあがいても個人が社会に支配される全体主義にしかならないのです。まあ極右にもないのですが。
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ウォルドロンはナッジが支配する、✨のない地獄を見越し、来世の話をしているのです。デイビッド・ランシマンやパトリック・デニーンもそうなのです。これが今のイケてるお姉さんなのです。