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写真にまつわる、考察未満のあれこれ

意識的に写真を撮るようになって日々思うことや発見があり、これはどこに辿り着くか分からない考察未満のあれこれ。

私が写真について人に話したい時、その話題は大きく4つあるようだ。
・カメラやレンズなどの機材について
・写真の歴史について
・何を撮るの?
・なぜ撮るの?
まだ増えるかもしれないし統合されるかもしれないが今のところ4つ。

機材について
私が意識して写真を撮るようになったのは、2020年の自粛生活中にインターネットで知ったオールドレンズ遊びがきっかけだ。自分が持っていたデジカメの本体に、フィルム時代のレンズを装着して撮ることができるという。なぜだか惹かれるものがあり、試してみたところとても面白く、レンズが変わると全く違う写真になることを実感した。フィルムカメラでも撮るようになり、やはり写り方に個性があるのが面白いのだった。このレンズを、このカメラを使うと、一体どんな風に写るんだろう。「道具を使う」という単純な楽しみが写真にはあると思う。びっくりするくらい高いので、多分私がそれを使うのは当分先のことだと思うけど、ライカのカメラを一度使ってみたいなと思う。

写真の歴史について
それは石器時代から始まった(かもしれない)という。私は今自分が使っているカメラが、さかのぼると石器時代に続いているみたいなことを考えるのが好きで、その時代その時代の人たちが、新しいカメラが登場した時にどんな気持ちだっただろうと想像するのが好きだ。ピンホール現象を発見した時の石器時代の人の気持ち。日本にカメラが伝わって、初めて撮影に成功した時の関わった人たちの気持ち。一般家庭にフィルムカメラが普及して、家族を撮ることができるようになった時のお父さんお母さんの気持ち。私はデジカメの登場から今に至るまでを体験していて、知り合いが買った新しい携帯電話を見て「もうそれカメラじゃん!」と言った時の自分の気持ちもよく覚えている。私は今、1960年代に登場してものすごく売れたというフィルムカメラ、PENTAX SPを持っている。フィルムを入れて、シャッタースピードを決めて、ファインダーを覗いてピントリングを回して、露出計の針を見て、これを使っていた当時の人たちもこんな風に写真を撮ったんだなあと、自分を遠い誰かに重ねるのが好きである。

何を撮るの?
写真が趣味ですと言うと、何を撮るんですか?とよく聞かれ、その度になぜか歯切れの悪い返事をしてしまうのだった。私はいったい何を撮っているのだろう。
考えた結果、私はどうやら「私が偶然目にした景色の中で、いいと思ったものの内、撮っても問題無いと判断したもの」を撮っているようだ。ストロボを使ったり、スタジオでモデルさんを撮ったり、テーブルフォトのように料理を並べて撮ったりといった、つまり「演出をする」ということを私はしたことがなく(その技術はなく)、私は大学時代に油絵を描いていたのだが、光や空間を演出して写真を撮るのは絵を描く気持ちに近いなあと感じている。いつかやってみたいと思いながらも、今は絵を描くのではなく偶然に世界に巻き込まれたい願望があり、事前準備なしで撮るそれは「スナップ写真」と呼ばれていて、私が撮っているのはスナップ写真だと思う。多分。

なぜ撮るの?
大事な問題である。私はなぜ撮るの。
2020年、オールドレンズで撮り始めた頃、「カメラは詩的な遊びなのだ」という本をタイトルだけで選んで読んだ。写真家の田中長徳さんが書かれた本なのだが、最初に触れた哲学だったので、初めて見たものを親だと思うみたいにずっと心にある。写真を撮ることは日常から少し距離をおくこと。我々を蝕む日常をいろんな角度から眺めて、詩的に捉えること。それはこの最近の心落ち着かない世の中を生きる助けになっている気がしている。
それとは別で、その昔私はSNSで映えたいという理由でデジカメを買っている。ちなみに「映え」というのは時に否定的な感じで使われたりするけど、どうしたら映えるだろうと考えるのは素晴らしいとことだと思っているので、私は自分のことも全く否定しない。(もちろん映えを意識しない写真も否定しない)
心ざわつく日常の救いになっていたり、純粋に映えていいねと言われたかったり、遠い先人たちと自分を重ねたかったり、まだよくまとまらない理由で写真を撮っている。どこにたどり着くかわからないが、四月には小さな写真展を開こうとしている。写真展についてはまた近日中に。

石器時代から続く写真の歴史がある。写真を撮る理由は人によって違うけれど、その歴史の流れの中に自分がいることがなぜか嬉しい。







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