「芸人」が反社会勢力に巻き込まれているのではない。


「芸人」が反社会勢力に巻き込まれているのではない。「芸人」の醜悪な笑いに、「蠅」が集(たか)り出して、いじめを生み出し、やがて反社会勢力を生み出しているのである。



そもそも「芸人」は、どちらかといえば、社会的に適合しずらい「反社会行動」の因子を内在した「支配型関係嗜癖」の類型に属する。
「支配型関係嗜癖」とは「自分の笑いに他者を追随させることを通じて、その場を統御する能力」である。この「支配型関係嗜癖」の人間の行動パターンはいじめ加害者やオレオレ詐欺などの犯罪者の場合と酷似している。
私たちは論理の秩序を転換しなければならない。このままでは必ずこの国は滅びる。


自然にかつ安定的に維持できる規模は
150名程度ー〈ダンパー理論〉

吉本は6000人以上と言われる所属芸人に対して、契約書もなく一体どのように管理指導していくつもりなのか。人間が社会生活を営むうえでおよそ自然にかつ安定的に維持できる規模は150名程度であると言われている。ロビン・ダンバー教授の提唱する「ダンバー数理論」である。

そこからダンバー数という安定組織上限数が提案されている。このダンバー数は厳密に言えば「共同体、組織体内において、その構成員がそれぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」となるが、その意味は人々が集団あるいは組織を構成している時に、お互いが相互にしっかりと相手を認識して理解した結果、安定した関係を築き上げることができる規模の上限、ということとなる。


「芸人」が反社会勢力に巻き込まれているという発想の誤り


何よりも不思議なのは、「芸人」が反社会勢力に巻き込まれているという発想である。それは全く違う。今時の「芸人」の醜悪な笑いに、「蠅」が集(たか)り出して、いじめを生み出し、やがて反社会勢力の予備軍として成長していくのである。

日本のお笑いの世界では、松本人志の「いじめ」と「いじり」の区別を、「いじめる側」と相手との関係性や表現のセンスの問題だという免罪符が堂々とまかり通っている。「暴力」や「犯罪」行為を相手が笑えば許されるとか、表現センスの問題などいうことを受け入れる人間の神経が理解できない。


「いじめ」における日本の4層構造


問題なのは、欧米ではあまり一般的ではないが、日本での「いじめ」は「いじり」という言葉に置き換えられ、いじめられる人、いじめる人、はやしたてる観衆、無関心な傍観者という4層構造を生み出している。
つまり、この4者は「いじめ」の構造において、共犯関係なのである。

こうした学校でのいじめ問題における「いじり」の存在について認識が広まるにつれ、心理学や教育学、社会学などの学術分野でも「いじり」の問題を指摘する動きが出てきている。


いじめて笑い、いじめられて笑う。傍観者たちもまた、それを眺めて笑う。


現代の「優しい関係」を営む子どもたちは、いじめて笑い、いじめられて笑う。傍観者たちもまた、それを眺めて笑う。
互いに遊びのフレームに乗りきり、彼らが「いじり」と呼ぶような軽薄な人間関係を演出することで、いじめが本来的に有する人間関係の軋轢が表面化することを避けようとする。
そのテクニックは、テレビのバラエティ・ショーなどから学ばれることも多い。互いに「いじり」あうことによって観客の笑いをとる芸人たちの言動は、彼らの教科書として機能している。

イジる/イジられるキャラを演じることによって自己肯定感を得ているのは加害者も被害者も同じである。つまり逃れられない集団によって被害者が被害者になるのではなく、自己肯定感を得んがために被害者を甘んじて受け入れているのである。


いじめに「免罪符」と「安全地帯」を
与えた男


そして、その「いじめ」が「笑っても良いもの」の「いじり」にいつの間にかすり替えられ、市民権を得て免罪符社会となり一般社会で再現され、広まっていく再生産されていく。
何よりも残念なことに、この差別的描写やハラスメントの描写はこの国の国民たちにウケる。ウケるからこそ、テレビの中だけでなく、社会に広まり、この差別・構図が真似され、再現されるのである。

つまり、「テレビで(公で)いじっていた内容なら、学校や飲み会でやってもいいでしょ」と差別的ないじりやセクハラ・パワハラが社会の中で繰り返されて行く。女性や黒人、LGBTをいじってもよいと認識されてしまうことで、差別的な会話やロッカールームトークなどが職場で起きる。「これくらいの強要なら、笑いになるでしょ」といって、飲ませたり、触ったりすることが職場で起きる。テレビの中の構図が、社会の中で広まり、多くの人を傷つけて行くのだ。
こうしたシステマチックな構造シェーマが、そのままこの国を覆い、不寛容な閉塞された社会を形成している。


この国は「笑い」について、
真剣に向き合うフェイズに突入している。


そもそも松本人志が「笑い」の天才という、私たちの頭の中の「論理の秩序」が間違っている。彼は「曲解」と「歪曲」の天才なのである。

弱者に強弁を振るい、強者には醜悪な笑顔を振りまく、松本の「陰湿」な笑いは、あたかも気の利いたメタファーを含む高度な笑いとして誤解され定位を持たないこの国の頭の悪いB層に支持されてきた。

この国の「笑い」は、「下品」や「過激」を嫌う、だからそれらをバックヤードに押し込み「陰湿」に走る。さらにやっかいなのは松本人志も受け手も「下品」、「過激」より「陰湿」な表現が高度だと思っているところにこの問題を複雑化させている。松本の表現には「メタファー」はなく、単なる言葉の尻をもて遊ぶ「曲解」と「歪曲」のダジャレの天才なのである。何かを示唆しているようで、実は何も示唆していない。

この国の人間は一体いつまでこんな「笑い」にぶら下がっているつもりなのか。


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