「芸術脳」ー 芸術的数理思考〜フラクタル(相似性)思考


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「芸術脳」ーM.C. エッシャーが描いた「天国と地獄」という、円の中心から相似な図形で埋め尽くした絵のように、部分が全体と相似になっている現象を一般に「自己相似性フラクタル」と呼んでいる。



「芸術脳」ー
芸術的数理思考〜フラクタル(相似性)思考


エッシャーの一連の作品を見渡してみると、浮かび上がってくる言葉がある。それは、「粘り強さ」である。
作品一つひとつにおける、緻密な描写だけではない。版画という技法は、原画から版板、紙へと転写する過程で変化・進化しうるし、また版板や紙の状態や木目などがもたらす影響も予測できない。そのような技法をあえて選び取り、全身で取り組む。しかも納得のいくものができるまで妥協せず、試行錯誤を繰り返し、そしてそのなかでさらに進化していく。

その苦労は並大抵の物ではあるまい。しかも、それが最後の作品まで続いていた。「続ける」ということは、それだけでエネルギーや熱を帯びるのかもしれない。そして、それこそがエッシャーの作品に、人を惹きつける力となっている。

もちろん、芸術家であるエッシャーは、双対性やモジュラー関数、引数がゼロの近所と無限大の近所で、関数の振る舞いが互いに同じであることを意味を理解していたわけではない。

芸術における思考の展開は、科学のように仮説を立て実験で検証するという理路はとらない。世界はシンプルかつ論理的・数学的であるから、心に思い浮かべたことを徹底的に考え抜けば、いつしか正しい答えが得られると考える。

芸術における脳の知覚は、単純すぎる情報や刺激には美しさを感じない性質があり、単純なパターンよりは少し複雑な方が美しさを感じやすい。だが、一見複雑に見える、芸術における抽象表現は空間や図形の一部分を構成する形と、全体を構成する形が似ている。

人間は、規則性のあるものに対して無意識に「美しい」と感じる性質があり、自己相似性もその規則の一つとされている。自己相似性は図形、音楽、映像、自然界など様々な場面で見ることができる。特に図形の場合は、細部と全体の形が相似であることを指す。


「部分が全体と相似になっている」現象を一般に「自己相似性ーフラクタル」と呼んでいる。それは、一言で言えば、粘り強い思考、芸術における知覚とは、知識で完結するものではなく,それが繰り返し解釈されることによって浮かび上がる認識のまとまりであり、いわば未知の総体としてアプリオリに前提されているものなのである。それは、一般的には思弁的という日本語で表現され、理屈だけというニュアンスを伴うが、この国ではしっかりと考え抜くとか、哲学することを諦めないということが圧倒的に不足している。
芸術においては、学者や政治家のような議論は繰り返さない。私たちの時間性はオルタナティブな構成的プロセスへと移行し、未来からの観点から、物象の中心点を発見し、先回りして来るべきものを把握し「芸術」を囲んでいく。
中心知覚を得ることにより、芸術は様々なフリーハンドによる表現の自由を得ることが出来る。「芸術」における中心は、無中心や自由律・破調の、そして、不完全、不気味の発達変遷の入り口なのである。
パラドキシカルに言えば、中心知覚を持ち合わせない、無中心や破調の表現は、決して「芸術」などと呼ぶことはないのである。


「定型脳」を保持している人間たちは、マイノリテイを駆逐し、自分たちにのみ都合の良い状態へ生活環境を変えてきたというのが,今日の先進国社会の状況にほかならない。それに対して、「芸術脳」の人間はそうでない人と認識世界が何がしか異なる。
一般に、「芸術脳」の人間は他人のこころがわからないとか、共感能力に欠けるといわれるが、芸術は「自然」に、そうでない人は「社会」にウエイトを置くという点で決定的に両者は異なるのである。

「芸術脳」の人間は、どんな意義があるのかといえば、それは、いざという時である。「芸術脳」の人間は普段は社会の役には立たないが、
その最大の有用性とは、人類にとっての最大の障害に対して、飢餓、疫病、戦争、つまり、「いざという時」において圧倒的に正しいことができる。
人間がほんとうに「美しい」こと、つまり「芸術」を展開できるはこういう人間のことなのである。


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