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巨人の肩から飛び降りる

1/現代人が優れているワケではない

田中泰延氏の「読みたいことを、書けばいい。」という本を読んでいたら、「巨人の肩に乗る」という言葉が引用されていた。12世紀のフランスの哲学者・ベルナールの言葉だそうで、アイザック・ニュートンが1676年にロバート・フックに宛てた書簡で、ベルナールの言葉を引用したことで有名になった、のだそうだ。

わたしがかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。

と書かれていたそうだ(もちろん英語だろうが)。

つまり、偉人の偉業というものも、過去の「巨人」の偉業を利用し、それに新しいものを加えたからこそできたものだ、ということである。

人間の一生など短い。成せることなど、どんな優れた人でさえ、高が知れている。「1」から始めていたら、いつまで経っても、同じくらいのところまで行ったところで人の命は尽きてしまうだろう。

だが、過去の偉人たちが積み上げた業績・成果を学んで、その地点からスタートするならば、確実に、もっと先へ、もっと上へと進むことができる。過去の偉人たちが「100」まで到達していて、もし「101」から始められるなら「105」まで進められるかもしれない。過去の偉人たちがすでに「105」まで駒を進めていてくれて、そこからスタートできるなら、こんどは「110」まで進むことができるかもしれない。つまり、そういうことだ。

現代人は、古代の人たちに比べて自分たちが優れているように感じているかもしれないが、それは間違いだ。優れているのは、過去から現在に至るまでに積み上げられた業績や成果の数々であって、ヒト自体は、現代人であれ、古代人であれ、大して変わりはない。

現代人は、過去の業績や成果を利用することで「巨人の肩の上に立てる」ということにおいて、古代人に比べてアドバンテージがあるにすぎない。だから、これまでの偉人たちが積み上げてきた業績や成果に学び、これを利用しないのならば、現代人も、古代人と何ら変わりはないのである。

月並みなことだが、ここに「学ぶことの大切さ」がある。

2/法律学の原理・原則も「巨人の肩」だ

このような「巨人の肩の上」に立って、さらに業績を伸ばすということは、科学や芸術の世界では特に顕著だろうが、法律の世界にも、もちろんある。

刑法の世界における「責任主義」「罪刑法定主義」など、近代刑法の大原則だが、逆に言えば、近代より前には存在しなかったということだ。これが普遍的な原理・原則と認められるに至る過程には、多くの歴史的経験があり、膨大な時間に及ぶ思索や議論があったに違いない。

そして、そうした時間と労力を経て、「やっぱりこれは大事だろう」ということで生成されてきたものだ。つまり、これもまた「巨人の肩」なのだ。

昔は、刑罰にも、むち打ちや手足を切断するといった「身体刑」があった。しかし、現在の先進国では、少なくともこれらは廃止されている。ここにも、やはり同様の経験や思索や議論があったはずなのだ。

現在の世界では、おそらく「私刑」を認めている国はないのではないか? これにしても、やはり歴史の中で廃止されたものだ。

かつては「嫌疑刑」という刑罰があったそうだ。その人が犯罪を犯したことは証明できなくても、疑わしい場合にそれなりの刑罰を科すことがことができるとう制度である。これもまた現在では存在していない。疑わしいということだけで処罰されるということの不合理が認識されるようになったからだ。

先進国では、被告人が犯罪を犯したことを検察官が証明して、初めて被告人が有罪となる、という制度が採用されている。被告人は、自分が無実であることを証明する必要はない。証明責任は、すべて検察官にある。これは「疑わしきは被告人の利益に」の原則などと呼ばれるが、刑事訴訟法の大原則である。

その基礎にあるのは、もし仮に、犯罪成立要件の一部でも被告人に立証責任を負わせた場合には、被告人は「犯罪をした」からではなく、「証明に失敗した」という理由によって処罰をされてしまう可能性があり、それは不合理だという考え方である。真に処罰されるべきは、「真実、犯罪を犯した者」であって、「自己の無実の証明に失敗した者」ではない。

このように、現在の法律学で原理・原則とされているさまざまなルールが、原理・原則となるに至った背景には、数多くの経験(歴史的な失敗やそれに対する後悔)があり、思索があり、議論があったのである。そういう意味では、これらはすべて人類の成果であり、到達点なのだ。

3/学ばなければ現代人も古代人と同じ

かつて大学で刑法総論の授業をもっていたとき、どの年の学生も、当初は、故意責任と過失責任の法定刑の大きな違いについて一様に驚くのである。

例えば、人を死亡させるという客観的な要素は同じなのに、故意犯である殺人罪(刑法199条)の法定刑は、死刑、無期懲役、5年から20年の有期懲役の範囲であるのに、過失犯である過失致死罪(刑法210条)では、1万円から50万円までの罰金なのである。学生たちは、この事実を知ると、大概は「えーッ」と驚きの声を上げた。

(殺人)
第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
(過失致死)
第210条 過失により人を死亡させた者は、50万円以下の罰金に処する。

そして、平気な顔をして、

人を死なせたら、基本、死刑でいいんじゃね?

なんて言ったりするのだ。

しかし、このような故意犯と過失犯に対する法の扱いの大きな違いにしても、1年間の講義を終えるころには、納得するし、「人を死なせたら死刑でよい」などという雑な考え方はさすがにしなくなる。

また、特に評判が悪いのは、刑法39条1項で、心神喪失者の行為が犯罪とならないことを説明すると、当初は、違和感や大きな抵抗感を抱くようだ。

(心神喪失及び心神耗弱)
第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。
   2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

そして

「そんなこと言ったら、殺されたほうは殺され損ですよね」

とか

「じゃあ、被害者の人権はどうなるんですか?!」

などとどこかで聞いたようなことを言ったりする。

もちろん、これは、彼ら自身が言い出した言葉ではなく、彼らがこれまでの生活の中で(おそらくはテレビのニュースやワイドショー、近くにいる大人たちの発言などで)聞き、共感したことだろう。

だが、このような心神喪失者に対する法の対応にしても、刑事責任とは何かということについて突き詰めて学ぶうちには、一定の理解を示すようになるのである。

この事実が私たちに教えてくれることは、2つだ。

1つは、現代人だって、これまで人類が歩み、積み重ねてきた歴史の成果を意識して学ばなければ、過失犯を故意犯と同じように罰し、心神喪失者の行為をも処罰の対象としていた時代の人々の感覚とまったく変わらないということ。

そしてもう1つは、まだ刑法学や刑事訴訟法学を学ぶ前の大学生と同じ感覚の大人たちが、この世の中にはたくさんいる、ということだ。

4/法の原理・原則を蹴飛ばすことの意味

「正義感」は、美しい心の働きだろう。たぶん。

そして、これまで犯罪者を処罰してきた人たちは、少なくとも、その瞬間は「正義感」からその行為をしてきたに違いない。私刑や身体刑をも含めて。

しかし、後になって彼らは、大きな後悔をしたのではないか?

そして、将来、自分たちの子孫がそんな後悔をしないで済むように、自分たちの犯してしまった失敗を防ぐための装置を法の中に設けたのだろう。それが、法の中に刻まれた原理・原則である。

だとしたら、これを「不合理なもの」と断定し、蹴飛ばし、捨て去ったら、その後に訪れるものは、いったい何だろう?

かつてのドイツに「形式的法治主義」という、それはそれは美しい制度があった。

憲法上の人権は、議会の制定する法律によりさえすれば、いかなる制限でもすることができる、というものだ。つまり、憲法は立法府を拘束しない。しかし、それでも大丈夫だ、心配はいらない、と言う。なぜなら、議会は、民衆の代表によって組織されるのだから、彼らが民衆にとって悪いことなどするはずがないからだ。

筋が通っている。それはそうだろう。あの論理的なドイツ人が作ったのだ。

しかし、それが歴史的には、どのような結果をもたらしたか?

結局、悲惨な結末とともに、この制度は、理屈どおりには機能しないことが、歴史によって証明されたのである。

もしこの制度を復活させたら、何が起こるだろうか? 想像してみよう。

もっと身近な例では「ネズミ講」がある。

「ネズミ講」は一定の周期で流行るのだ。

もちろん、ネズミ講は法律で禁止されている。ところが、少し形を変え、品を変えて「これはネズミ講ではない」などと言いながら、同じようなものが、必ず一定の周期で流行るのである。

ネズミ講は、必ず破綻する。財産を失い、友だちを失い、悲惨な結末を被害者にもたらす。

それを直接体験しなくても、同時代にそれが大きな社会問題になれば、その時代に生きた人たちは、これを肌で感じ、拒否反応を示すようになる。

しかし、そのような体験を直接的にも間接的にもしなかった人たちが社会の中に増えてくると、また、ムクムクと「ネズミ講」は息を吹き返す。そのような経験をしなかった世代を狙い撃ちするかように、少し形を変えた「ネズミ講」が社会の中にまた生まれてくるのである。

そしてそれは、初めてそれに触れる人にとっては、なんとも魅力的で画期的なシステムのように映るものなのだ。

そしてそれは、またしても数多くの悲惨な被害者を生み、幕を閉じるのである。

学ばなければ、人は、必ず愚かな歴史を繰り返す。

一時の感情(これには、もちろん正義感も含まれる)に流されて、法の原理・原則を捨て去ることは、きっと「巨人の肩から飛び降りる」ことを意味するだろう。飛び降りた先には、いったい何が待っているのか?

そしてそれは、またしてもあの「ネズミ講」に手を出すことでもあるのだ。


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