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「伝統と現代」 山本七平

「自由にしろと言われると、人間は一番抵抗のない状態を選ぶ。それで多数決とすれば伝統が自然と出てくる。明治からの生き方は西洋を輸入したものであり、われわれの伝統は江戸時代にある」という語りから始まる講演。

以下、概要をまとめたものです。


 親孝行の伝統は、生きているうちに遺産の相続先を変更できたためである。隠居と同時に相続が行われるが、子供に財産を相続させても、勘当すれば相続権はなくなり財産は戻ってくる。
 この相続は鎌倉時代から。また勘当は離婚よりも手軽であった。

 当時の隠居は40〜45才、老眼鏡がない、入れ歯がないためである。
 明治では「隠居法」という法律があった。
 戸籍に「隠居」と書いたら、あとは息子娘養子(誰でも良い)がそのあとのことを全て取り仕切る。相続人に家長権はないので兄弟には命令ができず、彼らは厄介者として都市部にお払い箱になっていた。
 江戸時代、親権は強かったが家長権はなかった。

 日本人は血縁といっても曽祖父母くらいまでで、それ以上は名前を言えない。血縁意識が薄い。「兄弟は他人の始まり」などというくらいである。
 そもそも、血のつながりのない人間を養子を取って家を継がせる伝統は中国韓国にも存在せず、非常に独特である。


 成年式は数え15才(いまの14才)ここから結婚適齢期とされた。いとことの結婚が非常に多く、そこも中韓とは違う点。

 武士と平民が結婚できないのは建前で、平民が武家に養子に入って結婚できた。ルールがあるとすれば仲人で、彼らが持参金や妻の持ち物を記録し、離婚の際には全て返却する決まりであった。夫が着物や家財を返さないと窃盗罪になった。
 夫から妻への三行半というのは「誰と再婚しても文句は言わない」という趣旨であり、また婿養子の場合には三行半は必要なく、夫はただ追い出されるだけであった。


 養子は例えば土地を持てない町人でも、次男以下を農家に養子に出して土地を買う。
 田畑の売買は禁止だが、名義だけ残して実際には売買されていた。寺には絶対に売るなと記した資料が残っている(一度買い取ったら二度と買い戻しをさせてくれなかったらしい)

 五公五民はうそである。1700年以降検地していないので、農地は全く把握されておらず、粟を作ると記した土地に藍を植えていたり、そのせいで豪農豪商が生まれた。

 豪農たちはお金を銀行=両替商に預けていた。預けても利子はなく、預かり手形と交換していた。預かり手形がそのまま売買にも使われたり、信用取引もあった(預けた金よりも大きな額の預かり手形を発行するなど)
 農村では質屋が質札を発行し、それが現金と同じように流通していた。


 良いことも悪いことも、前世/現世/後世を合わせてフラットになる価値観であり、妙に諦めが良い。前世の因果で現在悪いことが起きている、悪いことがあっても生まれ変わったら良いことになると。
 神社(大社)は何を祀るでもなく勝手に作ってOK。お賽銭を集めるために作られたような大社も多い

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