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「最後の波の音」 山本夏彦
私は芸術家の才能ばかりでなく実業家、英雄豪傑、およそひとの才能はせいぜい五年だと見ている。大負けに負けて上って三年上りつめて三年下って三年、〆て十年だと書いたことがある。あとは衰えるばかりである。
健康な人は本を読まない。本を読まない大衆に読ませなければベストセラーにはならない。醜聞なら誰しも乗りだして見てくれる。むろん私も見る。だから私は顔をそむける。そむけて見なくても風のたよりで知れて、何不自由ない。
江戸の町人はお上のご政道に間違いはございますまいと抵抗しなかった。浮世の事は笑うよりほかないと川柳、狂歌に鬱を散じて処士横議することをヤボとした。役人の子はニギニギをすぐおぼえ。
それでいて何でも知っていたのである。自分が役人になったら必ずするだろうことを、役人になれなかったばかりに、居丈高に難じたくなかったのである。
小説中の色ごとは全部または過半は作者の経験または妄想かもしれないが、むかし男ありけりと書けばどれどれと読んでくれるのである。立腹しないのである。作者は金なら損した話、女なら去られた話でなければ読んでもらえない
芝居や落語の田舎弁は架空の田舎弁である。明らかに秋田であり茨城である訛は避ける。客にその地の人がいたらいやな思いをさせるからである。
結婚したがらない女がふえた、結婚はしても子供を生まない女がふえた。以前は子供は二人いたが、近く一人になる。次いで一人もいなくなる。核家族は進行中なのではない、完了したのである。
たとえば女に選挙権はいらない、男にもいらない、制限選挙で沢山だとテレビで言ったら抗議の電話が鳴りもやまない。男にもいらないといっているのだから怒るに及ばぬのに、最初の言葉に怒って次の言葉は聞いていないのである。
「何用あって月世界へ」「禽獣にポルノなし」など、著者おなじみのフレーズも再登場する。同じことを何度も言うと自分で書いてそれを「寄せては返す波の音」と
『文藝春秋』『諸君!』の雑誌に掲載されたコラムをまとめたもの。平成11年〜14年(1999-2002年)ごろ
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