「I love you」を「月がきれいですね(大意)」と最初に訳した日本人はこの人……かも?

 「夏目漱石が『I love you.』を『月がきれいですね』と訳した」という(おそらく)ガセネタについては、皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

 この件について詳しい「『月が綺麗ですね・死んでもいいわ』検証」というサイトによると、この話は、雑誌『奇想天外』1977年11月号に掲載された豊田有恒のエッセイが初出とのこと。それによると

夏目漱石が、英語の授業のとき、学生たちに、I love you.を訳させた話は、有名です。学生たちは、「我、汝を愛す」とか、「僕は、そなたを、愛しう思う」とかいう訳を、ひねりだしました。「おまえら、それでも、日本人か?」漱石は、一喝してから、つけくわえたということです。「日本人は、そんな、いけ図々しいことは口にしない。これは、月がとっても青いなあ――と訳すものだ」

「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証

だそうですが……。この話については近年、いろんな方が夏目漱石のテキストやらエピソードやらを漁っているのにも関わらず、該当するような話が出てきません。それどころか、漱石自身は

英国留学時代の夏目漱石はロンドンの下宿にて西洋文学への格闘・思索・苦悩の数々を大量のノートに残した。『漱石資料―文学論ノート』は英文学者の村岡勇がそのノートの内容を調査し編纂したものである。そのノートの中でジョージ・メレディスの小説『Vittoria』に出てくる「I love you」について日本にはない「formula」であると書かれている。

「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証

 と、「『I love you.』は日本にはないformulaなので、どう訳したものかと困惑していた」ようなのです。よって、「漱石が『月がきれいですね』と訳したのはガセネタ」と思われているわけですね。

 とはいえ、個人的には「漱石以外の人がこう訳した可能性はあるんじゃない?」「で、豊田有恒がそれを『漱石のエピソードだ』と勘違いしたのでは?」みたいな可能性はあるんじゃないかな~、などと思ったりしたので、国会図書館デジタルコレクションに「love you 月 きれい」などと入れていろいろ検索してみました。その結果、発見したのが1958年に刊行された『英語のユーモア』という本。

 英語の小説や劇を読むと"I love you."という文句はしょっ中でてくる。映画でも同様である。いつかGreen Dolphin Street「大地は怒る」という映画を見ていたら,男がヨーヨーみたいなおもちゃを手に持ってブラブラさせながら女に贈る場面がでた。そのおもちゃには"I love you."と刻んであった。
 もっとも,I love you.は年頃の異性同志が言いあうものとばかり限らぬ。夫婦,親子,兄弟や姉妹,また同性同志でも一こう差支えないようである。
 つまり,ごく日常的な挨拶から,異性間の愛の告白に及ぶまでの広い範囲に亘るのである。こういう表現を日本語に訳すのは先ず不可能であろう。
 しかし,人間の感情の動き方というものはどの民族でも大した相違はないもので,ある民族ではうれしいときに喜ぶのに,他の民族では悲しい時に喜ぶなどということはあるものではない。
 日本人は悲しい時にsmileするということがその昔Lafcadio Hearnによって書かれて,日本人の微笑が世界的に名高くなった訳だが,日本人だって悲しい時に,うれしがるわけではない。ただ,その悲哀を表に出さないだけで,胸の底では同様に悲しんでいるのだ。否,かえって悲哀は深いかも知れない。そういう日本人の感情表現を芥川竜之介は「手布」という短編で書いている。
 さて,それでは英語のI love you.に相当する日本語の表現は何であろうか。私は
   「いい月ですえ。」
   「いい月だねえ。」
   「いい月ですことねえ。」
がこれに当たるのではないかと思う。もっともこの場合,「月」は必ずしも固定したものではない。「花」でも「景色」でも「絵でも」何でもいい。また,「いい」が「きれいな」でも差し支えない。要するにその時の話者の満足感,幸福感を打ち出すに適切な対象であれば足りるのである。

 しかし,何といっても,「月,雪,花」という並列でも知られるように,月はほめるのに一番いい対象であるようだ。それに夜の戸外はくらくて花など目に入らない。昔の日本では若い男女が並んで歩けるのは夜しかなかったのであろう。春で朧で御縁日,だから男が女に向って
 「いいお月さまですねえ」
といった場合,それは英語のI love you.と同じく愛を告白しているのである。それに対して女が
 「ほんとにいいお月さまですこと!」
といったら,女は男の愛をうけ入れたことになるが
 「ウソばっかり,ちっともよくないわ。」
と言ったら,この恋愛は先ず成立しないであろう。

国会図書館デジタルコレクション『英語のユーモア』 (学生社新書) ※要利用者登録
『英語のユーモア』 (学生社新書) より

 どうですかぁ、皆さん!(アントニオ猪木風) この文の著者は序盤の方で「いろんな意味合いで使われる『I love you.』を日本語に当てはめることはできないのでは?」などと、漱石と同じよう悩み(?)を書きつつも、中盤以降で「男女間で使われる『I love you.』だったら、『いい月ですねえ』でいいんじゃないか」と、「夏目漱石先生はこう訳したが……」的なことを書かずに結論づけているわけです。つまり、この文の作者は1958年(=豊田有恒が雑誌『奇想天外』で夏目漱石説を唱える20年ほど前)に、自力で「I love you.=いい月ですねえ」にたどり着いていたということになるのではあいかと。

 もちろん、この人以外にも「I love you.」と「いい月ですねえ」と関連付けた人はいたのかもしれません。が、ネットなどでいろいろ検索してみた限りでは、「漱石以外で『I love you.』を『月がきれいですね』と訳した人がいた」という内容の記事を、何らかの証拠文献を挙げたうえで書いている人は発見できませんでした。ということで、この本の著者こそが「現段階で確認されている、日本人で初めて『I love you.』に 『月がきれいですね』という日本語を当てはめた人」なのではないかなぁと思ったり。

 ちなみに、僕がここで「『月がきれいですね』と訳した人」ではなく、「『月がきれいですね』という日本語を当てはめた人」とか「関係づけた人」という曖昧な表現にしたのは、ちょっとした理由がありまして……。実はこの文の著者は、『英語のユーモア』が刊行される8年前・1950年に『英語研究』という雑誌において

 もう一つ例をあげよう.月下に若い男女が語らい合つている.男が女に愛の言葉をささやくとして,この場合の純日本的な表現であり
  今夜はいい月ですねえ.
ということであり,女が
  本当にいい月ですこと!
といつたとすれば,それは男の愛を受け入れたことになる.もし,あいにく,月が出ていなければ,花をほめるか,相手のキモノをほめるか,何か他の景物を見つけ出してほめるであろう.決して露骨に「私はあなたを愛しています」と言わないのが,日本式の流儀であった.
 この場合男の愛情は女性ばかりでなく,月にも花にも草にも,その他あらゆる周囲にとけ,無限にひろがつている.だからその中のどれを取り出してほめても同じ効果がある.

(略)

 だから,英語では人に食べ物をすゝめる場合にも合理的に「おいしいから召上がれ」と自分の考えを言う.
 Won't you take this pie? I hope it'll be toyour taste.(このパイを召上がりませんか.お口に合うと思います.)
 また,相手の女(又は男)が好きなら,I love you.と事実をハッキリいう.(日本人もこの頃はずい分積極的になって来た.しかし,今でも「好きだ」よりは「好いたらしい」という方が品がよく聞えるし意味も強い).
 この点,日本人は,ある感情的.情緒的なフンイ気をつくり上げて,相手をそのフンイ気に同化させて,自分の感情や思想を傅えようするのに対し,ヨーロッパ人は論理的に主張して,自己の思想,感情を傅えようする.これは言語にもよく現れていて,日本語は,形容詞や副詞や挿入句を使つていろいろと状況を描き出して,相手と自分を同じフンイ気にさそい込もうとする.

国会図書館デジタルコレクション『英語研究』39 ※国会図書館限定送信

などと、やはり「いい月ですね」とか「I love you.」について書いた文章を残しているんですよ。で、こっちの方だと「英語圏では、異性を口説くときにストレートに『I love you.』という」「それに対し日本では、異性を口説くときに『月がきれいですね』などと回りくどい表現を使う」という話になっているのですね。つまり、この文の著者は「『I love you.』を『月がきれいです』と訳した人」というよりは、「欧米人がストレートに『I love you.』というシチュエーションで、日本人は『月がきれいです』とか言っちゃいがち、みたいな文化比較をした人」という方が適切なのかなぁと。

 さて、ここまで書いてきたところ、この記事最大の問題にぶち当たるわけですが……。それは、この「『I love you.』=『月がきれいですね』」説の提唱者が、宮内秀雄さんという、名前を挙げたところで「誰、それ?」ってなってしまう人ということ。Wikipediaには項目はないし、コトバンクなどのオンラインデータベースで検索しても全然ヒットしないので、まったく説明できません……。一応、1950~60年代にたくさんの英語関係の参考書を書いているいたいなので、当時の英語教育界では大物だったっぽいのですけどね。あと、この人は「戦後初めて倒産した教科書会社」として知られる秀文出版の創業者っぽいです(本業知識)。現在、学校図書から出されている『TOTAL ENGLISH』という英語の教科書は、もともと秀文出版が出していたものなので、『TOTAL ENGLISH』という書名に覚えがある方は、知らず知らずのうちに宮内イズムに触れていたのかもしれません(適当)。

 とか、そんな感じですが、結論としては「『I love you.』=『月がきれいですね』の起源は1950年までは遡れたので、興味をもたれた方におかれましては是非とも1940年代以前の例を探し出していただきたい!」ってことで。


『英語研究』39


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