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純度100%の客観性

できるだけ、客観的な視点を持ってものごとをみようと意識している。とはいえ、私から見た世界は、私から見た世界である以上、純度100%の客観性とはなり得ない。全く関係のない(と思われる)第三者や事象についてであっても、たぶん、なにかしらのエッセンスで自分に帰属している。

純度100%の客観性ってなんだろうな?とふと思うことがあった。そんなもの、存在しうるのだろうか。

あ、あれだ。裁判やってるときの、弁護士とか裁判官の視点がそれに近いのかも。弁護士はある程度、争っている側の味方でいなければならないので、ちょっと純度が落ちるけれども。それでもあらゆるアプローチでひとつのテーマを見ていく必要があるので、たぶんこれが高純度の客観性を扱うものなんだろうな。

純度100%でなくても全然いいのだけれど、できるだけ自分の視点は純度の高いそれであるようにしようと思う。感情や、欲求でそれが濁ることが多いし、たぶんそれが人というものなんだろうけれど。あんまり濁ると、現実をちゃんと捉えることができなくなってしまう。

メンタルが不安定なときもそう。重大な決断はしないほうがいいとよく言うけれど、視点がどうしても偏ってしまう。

困ったことに、メンタルが不安定でも安定してても、最近は希死念慮というのか、ダメだったら終わりにしちゃえばいいやという救い(Syrup16gのいう、いつかは終わるそれ自体が希望、みたいな)は、いつも思考の中にあって、たぶん拭えそうにない。

もうこれはこれでいいか。でもなぁと、自分の中の客観性を引き合いに出すと、終わりにしたときは、それはそれで問題がありそうなんだ。たぶん、悲しんでしまうであろう、わたしの人間関係の中の人たち。その人たちのことを、そっと助けてあげられないこと。子どもたちの心の傷になってしまうのではないかということ。私がいなくても平気だと思っている人たちが、実は平気じゃないかもしれない可能性のこと。

この純度の高い客観的な思考は、わたしにとって希望なんだろうか、絶望なんだろうか。

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