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彗星

あなたには運命の人がいるだろうか?
これが運命だと嘆いたり、この人は運命の人かもしれないとときめいたり、とかくドラマのセリフや曲の歌詞に用いられる。

wikiによれば「運命」とは

人の意思をこえて幸・不幸を与える力、元から定められている巡り合わせ

のことを指すのだという。人生はわりと運で決まってしまう要素が多いためこれをすんなりと受け入れる人の方が多いのかもしれない。

でも、私は違うと思う。月並みのことを言えば「運命は自分で切り拓くもの」だ。なにをチープなセリフを、と思われただろうがまぁ黙って聞いてほしい。

果たして「運命」を決定づけるものはなんなのか。神の見えざる手か、はたまた悪魔のいたずら???

先に述べた、「運命は自分で切り拓くもの」とはどういうことなのか私なりの考えをお伝えしたいと思う。
まず重要なのは自分の意志に、目標に自分自身でコミットすることだと私は考える。プロの歌手になりたい、日本一のベースプレイヤーになる!などなんでもいい。そうすることで、時間はかかるかもしれないが、そこにたどり着くまでに必要なこと、自分に足らないことが浮き彫りになっていく。

それがいずれ指針となり、自身の人生の骨子となっていく。
人生を歩む中で、自分の骨子がしっかりしていれば、色々なものを取り入れる気概があればあらゆることが「自分にとって必要なもの」と思えてくる。なぜなら10を掲げたからだ。それがなければ1どころかスタートラインにすら立っていない、ゼロの状態。

10を掲げることで自分のいまの立ち位置、すなわち1の状態が出来上がる。

ただし、自分の1の状態があいまいなままだと、10との理想の軋轢に苦しむことになる。

そうならないためには、周りに予定調和せず、迎合せず、自分の頭で考えることが肝要。その意識を持っていれば、「必要なもの」を「必要なとき」に見つけることが出来る。それを俗に「チャンスを掴む」という。そのひとつひとつを大切に、進むこと、変わることをおそれずにいたものだけが2、3、と歩みを進めることができるのだ。

ただ、そのチャンスはほっといてもずっとそこにあり続けるものではない。いまだ!というときに手を伸ばさねばつかむこともできないし、そもそも気付かずスルーしてしまうこともあるだろう。

「運命」はそこで決まるものではないだろうか。
「人の意思を超えて」とあるが、人間は自分の生き方は自分で決められる時代だ。そこで手を伸ばすか伸ばさないか。そこが「運命の分かれ道」になるのだと思う。

家庭の事情、性別、容姿、などなどあらかじめ「サダメ」られていてどうにもできないこともある。でも、

自分が自分であるためにどうするかは自分で決めることができる

はずだ。

そうした明確な意志を持って出逢ったひとだからこそ、お互いの感性を刺激しあい、交流することで得るものが必ずあるはず。

ひとに限らず、仕事、音楽、様々なものとの出逢いのなかでそれを見つけることができればそれは私は「ウンメイ」だと思う。まさしく、おのが「命」を我が身で彼の地まで「運ぶ」こと。
その道中で得た経験、仲間などの流動的な要素が同調し、さらなる光が生まれることだろう。ひとによって行動原理は違うが、流儀をブレさせなければ「道を同じくしてくれる仲間」もきっといる。ひとの行動原理が交じり合うとき、自分が、周りの人が命を運び交差するとき、確かにそれが「ウンメイ」となるに違いない。

不確定要素、多様性が渦巻く現代では必定はなくとも必然はあると私は思う。必定というと神様のさじ加減で決まるようなある種の諦めが含まれているかのように感じられるが、「必然」はひとの行動原理や周囲の環境から導き出される事象だと私は思う。

ひとの行動原理は一度定まればそうそうブレることもなく、意識する、しないに関わらずそのひとの行動を決定づけていく。その選択の連続の中で出逢った人であれば、私は「運命の人」と言ってよいと思うのだ。それは恋人や結婚相手に限ったことではなく仕事仲間だってそうだ。
偶然出逢ったかのようで、実は同じ光を目指し収斂されたものなのかもしれない。

だがここで勘違いしてはいけない。

大切なのはその出逢いが「運命」かどうかではない。それを「運命」だと思える出逢いが大切なのだ。

闇に混ざるな交じり合え。闇に負けるな照らしあえ。

「ウンメイ」とは、闇を切り裂き同じ軌跡を描く光の螺旋、「彗星」のようなものなのかもしれない。

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