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ママは儘ならないまま #エッセイ

家を出てから随分と経つ。
それでも数年に一度は帰郷するのが故郷というものだ。
私はメイクを落とし、胸の目立たないブカブカの服を着て帰路に臨む。
家に着くと、母は嬉しそうに自慢の料理の腕を振るう。
父は悪態を吐きながらもパソコンやスマホの修理をしてくれる。
姉は大喜利系YouTuberのクソ動画を笑顔でオススメしてくる。
祖母は「人には人のペースがある」と私の現状の体たらくを優しく慰めてくれる。
愛猫は"撫でて欲しい"と喉をゴロゴロ鳴らして足元に擦り寄ってくる。
皆、私を愛してるし、私も彼らを愛してる。
笑顔溢れる家族団欒の食卓の輪の中に、私が居る。私も居る。
その瞬間何ものにも代え難い幸福を感じる。
私は人生で一番の幸せを感じる。
一時期絶縁状態になった過去からすると信じられない進歩だ。
こんなに幸せな事はないと、本当にそう思う。
しかし人は欲深い。
満たされると、その上の満足を求めるようになる。
私はもう一歩先の段階に進めたいと願うようになっている現状を認めざるを得ない。
私の生まれ故郷はとある田舎である。
古い畑と田んぼと新築の家ばかり立ち並ぶ平坦な景色がのっぺり広がるベッドタウンだ。
朝と昼には子供の甲高い声が響き、夜には鈴虫の音色と蛙の歌が鳴り響く。
そういうごくつまらない街だ。
喧騒の少ない牧歌的なこの街を私はとても気に入っているが、田舎の性質上価値観の閉塞感は否めない。
幼稚園の頃から自分が変態と呼ばれる存在だという事は自覚しており、刺々しく突き刺さる周囲の視線もまた知覚していた。
それを避ける為に幼少期よりずっと他所行きのマスクを付け続け、貼り付けた笑みと敬語は皮肉にも今の私の社交性の一端を支えている。
そんな田舎特有の息詰まる空気は、今も昔も変わらない。
だから私のアイデンティティに深く関わるセクシャリティは、家族にとって依然どうにも受け入れ難い事なのだ。
例えばカニバリズムのように、例えばカースマルツゥのように、生理的嫌悪感を催す何か。
嫌悪感。それに理由は無い。
理由が無い忌避ほど克服困難な物もそう無い。
家族にとっては私のそれは"それ"なのだ。
"それ"は禁句とする事が我が家の暗黙の了解とされ、その密約を守り抜く誓約と引き換えに家族関係を持ち直す事が出来た。
しかし、私は欲深い。
もしかしたら、10年前はダメだったけど、5年前はダメだったけど、今ならもしかしたらと。
諦観から一転、再び淡い期待を抱くようになってしまった。欲をかき。
しかし、私はここまで積み上げた関係値を台無しにしかねない爆弾をほじくり返す勇気が無い。
まだきっと早い。
その時期じゃない。いつか。
何年後か、もしくは家族に先立たれ永遠にその"いつか"は来ないかもしれない。
それでも家族が幸せなら、私がその輪に入る事が許されるなら、今のままで良いのかもしれない。
だって今とても楽しい。
充分過ぎる。
そう、思う。
…いや。思いたい。

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