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占いを自己紹介に活用すると自分年表はこうなる
出生地:北海道函館市
「海と温泉のまつり」の開催される町で育つ。
読み・書き・計算など、親が気づかないうちに自分で習得。
幼稚園児の頃の夢、「お花やさんになること」。
導く方向性のガイドが「黄色い星」の私は、美に関しての興味もあり、はじめてお小遣いを使ったのは、花屋さんで一輪のチューリップを買った時。
活発な小学生。
早朝から体育館でスポーツや遊び、帰宅後も兄や弟とキャッチボールなど。
小学3年生、係・委員会活動に参加することになる。
何を選ぶかも考えていなかったので、その時人気のあったものに乗る。
1番人気の保健係は、ジャンケンで絞られた2人に残るものの、そこで当時の親友に敗れる。
親友は、その頃からのしっかりした考えや自分の役割への認識、高校生の時に病気で父親を亡くした経験もあり、太陽の紋章が「赤い竜」の個性そのものの生き方の通り、命と向き合う職業・看護師となる。
一方のジャンケンに敗れた私は、これまた何も考えずに2番人気の放送係に手を挙げ、多数決で放送係になってからは、中3までの6年間、校内放送やウグイス嬢、委員長や部活動でも部長を経験します。
大勢の前で話すことが学生の頃の役割だったのも、意味ある一致(シンクロニシティ)で、この頃から「言葉の力」や「舵取り」というウェイブ・スペルの「赤い地球」の本領を発揮していました。
部活や委員会活動、成績優秀な親友、中学の頃は宿題もしませんでしたが、親友の家へ遊びに行くと、彼女は勉強や複数の習い事に通っていました。
そのうちの1つが書道だったのですが、書道のクラスは先生が明るくて、大勢の子供たちで賑わっていて、先生の字が好きだったので、私も親に習わせて欲しいと頼んだのです。
そして、学生の頃の唯一の習い事が書道でした。
その後、書道を高2まで続け、中等科師範免許を取得しました。
高2の頃、祖母が入院することになり、祖父の食事などのお世話をしに、書道教室から離れた祖父たちの家で生活することにしたのです。
それで、特に受験勉強もしていない、将来は手に職でもつけて働きたいから、専門学校に行きたいと自分では思っていました。
しかし、父からは大学だったら授業料を出すと言われていたのです。
すると、進学校ではありませんでしたが、進路指導の先生から、大学の推薦の話をいただいたのです。
そして、小論文の対策問題集をずっしり頂きました。
それでも、私は小論文の対策の問題をけっきょく一問もしないまま、試験当日を迎えます。
試験会場では、私は前から7番目の後ろの席で、全体を眺めていると、先生からいただいた問題集と同じような分厚い書類を持った受験者ばかりが目に入ってきます。
ぼーっとした私は、きっと、こう言う人たちが受かるんだろうなと思っていました。
ぶっつけ本番でしたが、リラックスしていたので、はじめての小論文も難しく捉えることもなく、面接官3人を目の前にしても緊張することもなく、英文を読んで訳すこともできました。
そして、合格発表の前日に、同じ高校の友人が、夕刊に名前が出てると教えてくれたのです。
父や祖父は本人以上に喜んでいました。
高校が開校20周年を迎えた年に、母校で小樽商科大学に進学した初めての人が私でした。
その当時の成績の優秀さは、太陽の紋章「黄色い種」の個性の通りのようです。
一人暮らしや仕事が始まり、大学入学から20代、ここで人生の大きな転機を迎えます。
ここからが、人生サイクルの「青の時代」の13年間でした。
変化・変容、多くの出会い、パートナーシップを学ぶ、チャンスをつかむ、まさしく「青の時代」そのものというような13年間です。
日中、フルタイムで仕事をしながら、夜には大学へ通い、サークルや、引っ越し先での仲間とのつながりが、すぐにできます。
そうして、雰囲気に流されたまま、大学生活1年目が過ぎた頃、掛け持ちで化粧品の指導販売の仕事にのめり込んでいきます。
全従業員600人ずつ2班に分かれて、1200人を豪華客船2泊3日の慰安旅行へ参加させてくれるような大きな観光会社で働いていたのが、化粧品の仕事へシフトしていくのと合わせて、午前中くらいまでのホテルでの調理や接客の仕事に切り替え、夜も別の飲食店の仕事を掛け持つようになると、学校へ行くのも減っていきます。
10代で化粧品の仕事をはじめたことで、20歳の頃にはっきりと「自分のお店を持ちたい」と思うようになりました。
ここでも、ガイドの導き「黄色い星」と一致して、私は化粧品の仕事を通じて、お客様にメイクやマッサージをして喜んでもらうことに、強烈に惹きつけられていました。
そして、この頃その化粧品の仕事を通じて、田中角栄の専属占い師のご経験や、アメリカやフランスで国民名誉市民となられ、某有名芸能人の専属占い師になることも決まっていた占い師の「いずみ」さんという方で、化粧品会社がこの方をお呼びすると「1時間30万円」とも言われる方だったのですが、マネージャー達や先輩と占っていただく機会があったのです。
「あなた学生なのに勉強してないでしょ。」「飲食業が向いてる。」と私は言われて、
なんだ、そのままじゃんと思いましたが、
先輩はというと、
「今の彼氏と結婚したほうがいい」と言われたのに、
「じゃあ、何であなたは離婚されたんですか?」と言い返していました。
そして、その先輩はその後すぐに、結婚したらいいと言われた彼とは別れて、全く別の人と結婚して、無理して頑張ってる感じから、幸せいっぱいな感じに変わっていったのです。
私はというと、いずみさんが「24歳頃にお金が貯まってくる」と仰っていた通り、25歳でcaféを開業します。
それまでのホテルでの調理や接客の経験に加え、店舗でも化粧品の販売も継続していける、それまではお客様の時間や勤め先の時間に振り回されるようにして過ごしていたのが、20代の前半に何度も大学を辞めようかと考えていたのが、大学生活7年目にして、「卒業する!」と決めたのです。
すると、よく食事しに行っていた喫茶店のママから、「若い人がこの場所で何かするとしたら、何がしたい?」と言われ、居抜きの話をいただいたのです。
大学を卒業すること、20歳の頃に決めた「お店を持つ」ということ、化粧品の仕事を続けるということ、どれも実現するためのチャンスだったようです。
その3つの目的があったので、1人でできるくらいの店で、カウンター5席と、2名席が2つ、4名席が1つという13席のお店で、オーナーママをはじめました。
化粧品を通じて出会った方たち、学生の頃の友人たち、昼夜のアルバイト先で出会った方たち、以前のママの頃からいらっしゃっていた方たち、常連さんからの呼びかけで、市内のフリーペーパーへ掲載していただいたり、営業中電話でラジオの生出演を受けたり、1番驚いたのは、るるぶさんが飛び込みできて、向こうから小樽市内の飲食店2店舗だけの企画に、老舗喫茶店の隣に広告費もなく掲載していただいたことです。
開業の前日には、取扱している健康食品の会社(まるかんさん)のパーティーに出席して、斎藤一人さんが登壇されるまでの長い行進中に、参加者の多くが握手をしに行くのに、私はぼーっとしていて、隣の席の薬局店オーナーに背中を押されて、他にも大勢の方たちからもグイグイ後ろから押されて、何も握手をするつもりがなかったのに追いかけるかたちで握手をしました。
「なんて柔らかい手なんだろう!」と思いました。
その一人さんは、「赤い地球」の私とは反対の「青い手」の個性の持ち主だったのです。
“チャンスをひきつけるパワー”を持つ「青い手」とは、まさしく一人さんの手そのものだと、今更ながら思います。
毎日来てくださるお客様や、週に何度も来てくださるお客様、お一人お一人個性的で、その人その人に合ったマイカップを「やきもの屋さん」に選びに行くのも楽しくて、そちらで来店時にコーヒーを提供したり、閉店の際には、箱に入れて持ち帰っていただきました。
もうちょっと手を抜いたらいいのにと思うところで力を入れちゃってる、ちょっとオーバーワーク過ぎて空回り気味かもというのが若い時の自分でした。
飲み物の種類も30種類とか、パスタ5種類、ご飯物5種類、30食くらいは毎日作れる状態を一人で続けるのは、時間的に自由はできて大学には行くようになったものの、一箇所に閉じ込められている感が、どうしても自分には合っていなかったようで、体調を崩すことが続いていました。
割と近くに弟が住んでいたので、手伝おうかと言ってくれたのも、ちゃんと考えるだけ頭が回っていなかったり、自分が体調を崩すような場所で、他の人を働かせるわけにはいかないという思いもあって、店舗は2年間で閉めることになります。
しかし、その2年間、いえ私にとっての小樽で過ごした9年間は、何十年分かと思うほどの様々な経験の連続でした。
私の28年間過ごした北海道は、地理的には広いですが、私の見ている世界は狭いものでした。
北海道の中でも行ったことがない場所の方がほとんどです。
café経営中に、8年半在籍した大学を卒業することができました。
好きだった化粧品の仕事も約10年続けることができました。
そして、次のゴールを持たずに実家で半年間休養して、再リセットをします。
実家では毎日のように祖父から「早く結婚しなさい」と言われ続け、話を聞き流していました。
そうして、また何も考えずに、短期間だけ北海道を出ることを決めます。
それで、派遣会社を通じて決まった行き先が、石川県と福井県の県境にあたる場所でした。
はじめての道外での仕事、北陸の人たちの温かい人柄、今までにない自由な環境、〜しなければならないが何もない居心地の良い環境は、自分が視野を広げて見る世界を変えれば、まだまだ沢山あるのです。
半年間と決めて来た北陸だけど、また来たい!
そう思いました。
私は次の新天地を見つけ、北海道に戻るとすぐ北陸での仕事を探しました。
そして、その後から30代前半を石川県の温泉の近くで過ごし、仕事、宴会、温泉の日々を満喫します。
それが、「なりたい自分になる」「仕上げをする」「物質的・精神的豊かさを手に入れる」、黄色い時代の13年間のはじまりでした。
35歳の時、顔を合わすたび「結婚しなさい」と言っていた祖父が、95歳で亡くなりました。
自分でコントロールできないことを自分以外の人に望んでも、誰かの望むように生きるためではなく、人は自分が望む通りに生きていいと思うのです。
ただ、喪失と再生という言葉が当てはまることが、人生には幾度と訪れます。
祖父が亡くなり1ヶ月も経たないうちに、私はその後夫となる人と出会ったのです。
そして、1年間の交際後、夫の住む関西が次の新天地となります。
石川県の旅館で働いていた時には、多くの関西からのお客様がいらっしゃったのですが、私にとっての個人的な知り合いは、大阪には夫ともうお二人(ペア)しかいませんでした。
そして、そのどちらも私にとってガイドの「黄色い星」の個性の持ち主だったのです。
しかも、私の弟と夫は同じKIN。
KINが同じということは、260種類あるうちで同じエネルギーを持つということです。
さらに、私が中学時代にはまった唯一の小説作家、氷室冴子先生とも同じKINです。
導かれるもの、惹きつけられるものの個性が一致しているのです。
このようなシンクロを経験しやすいのも、私の持つ「赤い地球」という個性と当てはまっています。
2014年だったと思いますが、仕事から家へ帰ってテレビをつけた瞬間、ナインティナインが司会のGメンという番組に、以前のアルバイト先のホテルの社長が、「北海道の不動産王」と呼ばれて出演されていて、お金持ち特集かなと思った矢先、続いてまるかんさんの柴村恵美子社長が登場されたので、面識ある方ばかり2人連続でテレビをつけた瞬間出てるってある?と、不思議な感覚でした。
そしてその後も、テレビをつけた瞬間、なんでもお宝鑑定団に前述のホテルの社長が、今度は「北海道のドナルド・トランプ」と称されて出演されていたことがありました。
2018年には、マヤ暦占星術の講座で絶対反対KINの方と出会い、その2週間後に自分と同じKINの宇徳敬子さんに会い、ライブ後ハイタッチをしてステキと言われる体験。
2019年(今年)の1月には、私の鏡の向こうKINの日に、鏡の向こうKINの関係性の方からフェイスブックでメッセージつきで友達申請をいただきました。
今年3月には、会計のクラスを受講して、後ろの席の方がガイド、その隣の方のガイドが私でした。
そして9月、地下鉄で見知らぬ女性に声をかけられ、電車中でお話していると、その方が私のガイドであることがわかったのです。
11月3日にコーチングサミットで苫米地博士の生講演にも参加することができました。
尊敬する圧倒的ロールモデルであり、引きつけられる存在とは、やはり関係性があります。
私とは神秘と同じ個性のうえ、私にとってガイドという関係性という結果は、副産物としては嬉しすぎます。
きっと、私と出会う方や、私の存在に気づいてくれた方にとっては、こちらの鑑定結果が、嬉しい副産物になると信じています。
1年18980種類の輝きで照らす未来は明るい
ハッピープロジェクト
ハートは地球に優しく
なぜマヤ暦占星術を活用すると脳トレになるのか
抽象度の上げ下げに有効なのです。
つづきは別の機会で、では。
全体を観るという視点や脳力を磨くためのトレーニングとして、こちらでは、こよみの活用によって、貴重な時間とのつき合い方が上達することも合わせて、より柔軟で輝く人生設計を支援していきます。
“宇宙の神秘からもたらされたもの”と、私自身が直感したもので、
その占術の個性に当てはまった生き方をされていらっしゃる方が、
とても幸せな方が多かったので、私はマヤ暦を活用していきます。
⬆️LINE@ 友だち登録をして生年月日をお知らせいただくと、あなたのKIN(ソウルナンバー)と相性相関図を返信いたします。
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