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「遊び」と「学び」と「働き」



 

1 好きなこと、遊びから学ぶ

 しばらく前に読んだ本の内容から、今日は「三つに分けられた悲劇」という話を取り上げます。
 この本の中に「遊んでいるうちに、結果的によく学んでしまった。」という言葉が出てきます。
 よく学級の児童には「○○博士」「○○名人」「○○達人」と言われような子供がいます。例えば、昆虫博士、鉄道博士、イラスト名人、けん玉達人などなど。他にも、なんでこんなことに詳しいのと思うようなことを趣味にしている場合もあります。好きだから、没頭しているうちに、色々なことに詳しくなった、好きなことを追いかけているうちに知識が増えたということが起きるわけです。つまり、好きなことや遊びは学びとセットだったわけです。趣味を追いかけているうちに、詳しくなった、色々調べて、色々分かるようになったいたという経験は、大人も思い起こせることがあるのではないでしょうか。

2 遊びと学びはシームレス

 遊びと学びはシームレスだったのです。一昔前は、遊びから学んでいたことがたくさんあり、学ぶことは楽しかったはずです。しかし、現代の学校での学びを子供達は、楽しく感じているのでしょうか。全国的に不登校数が増えていることを見れば、公教育の限界を迎えているように思います。学校での学びはつまらないものになってしまったのです。それは、「学び」から「遊び」の要素が取り除かれてしまい、つまらない「勉強」になってしまったからです。正確に漢字を読み書きする、速く正確に計算するなど、「遊び」は取り除かれ、学びのエッセンスだけがピックアップされ、それができるかできないかだけが注目されるようになってしまった。
そして、それを点数化し、差をつける。。。こんな公教育に子供達は、ノーを突きつけているのが不登校数に影響しているように思います。もう限界が来ているということです。遊びの要素がないと、つまらないですよね。

3 遊びと働きもシームレス

 大人になると、「学び」は「働き」にも置き換えられます。遊びと働きもシームレスだったのです。これもまた、仕事の効率、利益、損失、など数値で比較され、個人の能力に差をつけられる。やはり、「遊び」は除外され、「働き」はつまらない「仕事」になってしまったのです。近年、「遊び」の要素がある企業や職種が人気があるように思うのですが、関係がありますよね。公教育って何だか窮屈に思ええてなりません。

4 「遊び」と「学び」と「働き」はセットで

 「遊び」と「学び」と「働き」を別々にしてしまったことが悲劇なわけです。「遊び」がなくなり、「学び」は「勉強」になり、「働き」は「仕事」になった。
「遊び」の要素を取り戻していくこと、「遊び」を取り入れられる余裕を作り出すこと、「遊び」を取り入れてもお咎めながないこと、世の中、もっと大らかな風潮があれば、色々変わると思うなぁ。
 公教育は、ちょっと窮屈すぎると感じる今日この頃です。



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