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『異文化との接点が始まった19歳〜23歳までのちほみStory』🌼金曜日は日本語教師の日

毎週金曜日は、『日本語教師の日』です。

記事を、こちらに掲載致しますね。

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こんにちは。
あっという間に6月で、あっという間に23歳の時から28年も時が経ちました、、、。

今日は、日本語教師としての経歴に、もしかしたら少しくらいは影響があったかも?!という、

『最初の外国人の皆さんとの触れあい』
を主に書きたいと思います。

私は、18歳、大分の高校を出た後、親が行かせてくれる精一杯の距離が「福岡」で、福岡の大学を受験しました。

中学から英語に目覚め、英語文法を必死に勉強して、英語だけは、常にいい成績が取れていた私が目指す学校は、北九州にあった大学で

『英米学科』
がある、数少ない学校でした。

英語の偏差値はかなり高いレベルでしたが(私にとっては^^;)、英語しか見えてなかった私は、その学校一本で受験し、高校の先生からは

「よっぽど運が悪くない限りは落ちないよ」
と言われていた、、、、

のに

試験二日前に、インフルエンザになり、史上最悪くらいにひどい体調になり、試験会場に着いてから家に帰り着くまで、ほぼ記憶無し、、、というくらい、ひどい体調でした、、、。

そして見事に不合格。

そこから日程的に行ける学校が、福岡の1つの短大しかなく、しかも二次募集、、、。

非常にお世話になった学校ではありますが、その時の自分の人生を全否定しながら生きてきた2年間の中で、記憶があるのは、ほんの数日間、、、あとは全く記憶がありません、、、。

まるで行ってなかったみたいに記憶が無く、、、。

この大挫折で通った短大二年。
全てにネガティブ。
全てのに否定的。

こんな感じで過ごしてきて、就活の時も全く活動せず、、、卒業がどんどん迫る中で、学生課の先生から、

「ともださん、就職する気、、、あるの???」
とご心配をいただき、

「あ、はい、、、あるはあります。」
との返事をしたものの、活動は全くせず、、、。

そこで動き出したのは私、、、ではなく、学生課の先生方^^;

「こういうところがあるから受けてみたら?」
と言われた受けたのが、韓国のSamsung。

日本では「三星ジャパン」という名前から、途中で「日本サムスン」に社名変更したものの、もちろん韓国の「Samsung」のこと。

「あ、はい、分かりました。受けます。」
と、受けて、合格して、無事、卒業後、Samsungに入社。

ここから、「韓国の人達」とのお付き合いが始まりました。
社内の半分は韓国人。
そして、仕事は貿易の仕事だったので、電話を通して関わる人達は

90%韓国人
5%タイ人
5%アメリカ人
っという感じだったと思います。

そこで私が見た
「え?!」というカルチャーショックと、
「え?!でも、こっちの方が居心地良いな、、、」と思えた文化の違い。

外国人と接することの楽しさを感じ始めた最初の一歩。

・時間にゆるい
・約束にゆるい
・表現がストレート

など、逆を返せばうまくいかない原因にはなりますが、私にとっては、

「あまり気を遣わなくていいな、、、。なんだか、楽だな。」
という思いが勝っていた最初の職場でした。

激しく上司と言い合ったり、文化の違いに本気で腹が立ったりしたことは山ほどあるものの、

「裏表がない」
という安心感は、一緒にいてとても「楽」でした。

この時ぐらいから、そこまでの人生で、どこか「生きづらい」と感じていた思いと、

「これって、日本だから、、、?日本人だから、、、?」


という発見が、リンクし始めました。

進学で大挫折をし、
短大で記憶が無いほど人生を大否定し、
やる気のない状態で就職し、
入ってみると異文化の世界で、
目が覚めるような違いが日々あって、、、

ここからやっと、
「わたしらしい」が見えてきました。

異文化を通して自分が見えてきて、
異文化を通して日本が見えてきて、
異文化を通して固定概念が見えてきて、

「異なる」を知ることの影響力のすごさを知った数年間でした。

23歳ぐらいから、やっと私の人生が始まった、と感じ始めていました。
「異文化」が、私を変えてくれました。
それは今も毎日思っていることです。

異なることがはっきりわかると、「私は私でいいんだ」と思えることにも繋がっていて、「違って当たり前」と本当に思えて。

では、ここまで!
次は、「次の異文化Story」をお伝えします^^

火曜日はまりりんの日です^^
まりり〜ん、来週もよろしくお願いします〜!!!



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