生きたい幻想を生きる、猫を撫でながら
夜中、顔にふわふわしたものが触れて目を覚ました。何かと思ったら猫だった。
枕元に座った猫がこちらに背中を向けるような体勢で寝始めたらしい。
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夏休みの過ごし方としては、最後まで宿題をためておくよりも早めに宿題を終わらせてから悠々自適に過ごす方が良いとされる。
けれど実際の社会生活でそれをするのは難しい。
人生で降りかかる問題は宿題のように全員に共通のものではないし、そもそもどのような状態をもって「終えた」と言えるのかというのも実は曖昧だ。宿題のように手を動かして終えていけるものではなく、答えが出るのに数年数十年、一生かかったりすることもある。
なにより全てのタスクを終えたと思った瞬間に新たな問題が増えていたりする。終わりはない、問題は常に起こり続け、解決し続け、継続し続けている。
だから、問題は起こるものであり継続し続けるものであると諦めて、問題と並行して遊びやバカンスを始めていかなければ。
老後の楽しみを今から始めよう。
ということで、社会生活でのいろいろな問題を抱えながらも今週は猫と遊んでいました。
猫、というか生きものの命というものはあまりにも可愛く愛おしく、尽きることのない泉のように愛情が湧いてくる。
こんなにかわいい子がここにいると思うと、人生で本当に大切にしたいことはなんだろうと考える。
まだ楽しんではいけない、まず問題を解決しなければという夏休みの精神性が残っていると、社会生活の中で降りかかった問題に無差別に注力してしまい、気が付いたら悩みは深く気力は削られている。
でも、こんなにかわいい子が今ここにいるじゃないか。よくよく考えたらそれ以上の幸せってあるだろうか。いやない。
こんなにかわいい子を差し置いて悩まないといけない問題はあるだろうか。いやない。
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幻想は、現実の諸問題を具体的に解決する手段ではない。
現実で問題が起こっている時、その問題の攻撃力を超えるような強力な武器を探し求めてしまう。
でも本当はそんな武器はなくて、また所持する必要もないのかもしれない。
幻想は武器にはなりえないけれど、問題に別の視点から光を当てて捉え方を変えるような、問題を問題でなくすような、本当に心を注ぐべきものを考えさせるような、そんなかけがえのない力を与えてくれる。
もし休日に猫と遊ぶ時間が現実逃避の幻想なのだとしたら、社会生活という現実も、現実という名前を冠した幻想の1つだ。
わたしはどの幻想に愛を注ぎたいだろうか。
ここまで読んでくれたあなたがだいすき!