2024年9月24日(火) ちょっとだけ前ちゃんの話をしよう

(1回それとなく書いたこともありましたが一応前提としてお話しておくと、2016年の2月くらいに前山剛久くんを知ってからひっそり応援してました。)



 前山剛久はただの役者の前山剛久だったけれど、今はどこでも「神田沙也加さんの…」が枕詞につくようになった。



 わたしはただの役者としての前ちゃんを知っていたし、前ちゃんを応援している間は楽しい夢を見させてもらったし、要するに情が移ったので、前ちゃんが健康で文化的で穏やかな人生を送ってくれたらいいなと思っている。


 ああいう報道がされたのなら(わたしは週刊誌とかニュースとかつらくてちゃんと見られてないので具体的にどんな報道なのか今でも分からない)、前ちゃんを批判する人や許せない人がいるのも無理はないかもしれないけれど、批判したり憎んだりするのはわたしの仕事ではないという感覚がある。

 前ちゃんは誰かにとっては許せない人でも、わたしにとっては楽しい時間をくれた人なので、世間の流れに合わせて一緒に批判するのは多分わたしの仕事ではないと思う。
 批判したり恨んだりするのは他の誰かがやってくれてるので、元々応援してた自分のやるべきことは、前ちゃんの穏やかな人生を祈ることだと思って。


 それでもやはり前ちゃんが批判されているところを見るのは心が痛む。
 ひどい事をした人なのだから批判されるのは当然だ、とかそういう正当性の話をしてるんじゃなくて。
 わたしの言っていることが正しいか間違ってるかなんてわからないけれど、わたしにとって大切な前ちゃんが悪く言われているのが悲しいというただそれだけ。

 前ちゃんのことを本当に許せない人がいることよりも、普通に生活してたら前ちゃんのことなんて知らなかったであろう人が、ゴシップ記事を楽しむくらいの気軽な感覚で前ちゃんを批判することが、それくらい適当に批判していい人間と思われていることが、何よりつらい。




 さっき自分で「ひどい事をした人なのだから批判されるのは当然だ」と書いたけれど、今まで当たり前のように「目には目を、歯には歯を」の世界観で生きていたんだなと思った。

 例えば、何か才能があればそれを免罪符に何をしても許されると思ったり、また今回のように、何か責めるべき点があればそれを理由にその人をどれだけ攻撃してもいいと思ったりする。
 わたしにもそういうところはあった。

 でも、一体どうして自分に人を裁く権利があると思っていたんだろう。
 そもそも、自分の生活に直接関わってこない人のことなんて、怒ったり攻撃したり裁いたりする必要もない、それをするだけの縁がないような気もする。

 深く考えずに面白半分で、噂になっている人を揶揄したり笑ったりすることは、その人を大切に思っている誰かを深く傷つけることだって、もっと早く気づかないといけなかった。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!