一見皮膚で綺麗に覆われてるけど内臓が1つ足りない

 たとえばわたしは美術館に行くことができる。
 でも同じく美術館にいるあの眼鏡のおじさんは、美術館に行くだけじゃなく、仕事では勤続15年と中堅~ベテラン層で、小さいチームのリーダーを任されていたりする。

 たとえばわたしはパン屋さんで買い物することができる。ここのパン屋さんはメロンパンの種類が沢山あって、紅茶メロンパンが1番おいしいんだよ、なんて一人前に順位を決めたりもできる。
 でも同じくパン屋さんにいるあの女性は、パン屋さんで買い物するだけじゃなく、小さい子供を育てながら最近時短勤務で職場復帰もした。

 たとえばわたしは漫画を読んでSNSで感想を書くことができる。
 でも同じ漫画を読んでいるあの学生は、自身の研究テーマに合わせて文献を読み、また自身も学会で発表することができる。


 わたしは美術館に行ったりパン屋さんで買い物したり漫画を読んだりしかできないのである。

 美術館に行ったりパン屋さんで買い物したり漫画を読んだりができるから、一人前の人間に一見すると見えてしまうけれど、なにかこう一番肝心な部分がすっぽぬけている。
 表面的な簡単な部分だけ人間らしく振舞えて、それ以外の部分はまるでダメ。

 以前自分の不安感について、「一見皮膚で綺麗に覆われてるけど内臓が1つ足りない」と表現したことがあったけど、まさにその感覚。


 みんな当たり前のようにやっていることがわたしには全く当たり前じゃないくらい難しくて、1人で生きていたらわざわざやろうなんて思わないくらい難しくて、もしかしてわたしはひどく頭が悪いんじゃないかと不安になる。

 そしてまた、わたし以外のみんなはちゃんとしている、世界でたった1人わたしだけがおかしいんじゃないか、という思いが芽生える。


 この「世界でたった1人わたしだけがおかしいのでは」というのは以前の私の不安のメインテーマだった。
 でも今は、あまりにも他人への解像度が低すぎる悩みだったと思う。世界人口は70億人を超えているのだから、それぞれの人がありとあらゆる生き方をしているだろうし、自分が70億人の誰よりも頭が悪いとか、70億人に共通しているものを自分だけがもっていないとか、その可能性は限りなく低いと思う。

 とはいえ、この「世界でたった1人わたしだけがおかしい」の感覚が再度現れたのはそれなりの心の疲れと不安を反映してのことだと思う。

 でも以前と違って、不安の世界観に取り込まれるのではなく、自分の世界観に不安を置いておけるようになったと思う。不安を客観視できている。



 不安を内から外から眺めながら、平穏と不安を行き来して目をチカチカさせながら生きていく。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!