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離婚ホヤホヤ
彼女も私もバツイチだ。離婚の理由は様々で、私たちも理由はバラバラだ。私はもう何年前になるのかわからないくらい以前に離婚した。が、彼女はまだ「離婚ホヤホヤ」なのだ。
その離婚ホヤホヤの元旦那を嫌いになって別れた訳じゃない彼女は、いつか元旦那の元に帰らなければいけないと感じている。彼女は自由だし、それを引き留めることは「絶対にしない」と私は思っているが、話を聞くと止めたくなる。これは嫉妬なんかではなく、単に「ひどい旦那」だったからだ。
他人の旦那の悪口を書くつもりはないし、私の価値観で観れば「ひどい」だけで常識から見たら「良い旦那」かもしれないし。というわけで詳しく書かないが彼女が「結局、旦那の母親になってしまった」と言っていたのが気になった。
夫婦になるとは、家族になるということだ。しかし、家族になるということが親子になるということではないだろう。しかし、多くの母性は、幼い精神の旦那の面倒を見てしまう。それは、すごく分かる。俺もそういう、精神が幼い人間だし、そもそも母性と言うはそういうものだからだ。
人権がある国なので日本では人は自由だから、元鞘に戻るのも自由だ。でも、おかしな依存に付き合う必要も義務もないと思う。それは選択の自由に見えて、自由を捨てることを意味するからだ。自由を捨てることだけが自由に反することだ。
私は結構前から人の「幸せ」についても考えてきた。そして精神をいじる薬で到達できる程度の感覚でしかない「幸せ」ってものになぜ価値があるか、ということに疑問を持っている。それでも「幸せ」を感じたいから、こうやって彼女と会って抱き合っている。
でも、もしかしたら、そんな幸せよりも、同じような毎日の繰り返しの中で、誰かの世話を、死んだ目をして、自分の命という時間を費やして、過ごすことが良いのかも知れない。刺激がない世界は幸せではないが、決して不幸ではないのだから。
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