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想像と想像と想像 #33

「人間失格?」

先日、国語科の人と飲む機会があった。
その飲み会では普段とは打って変わり、「文学」をテーマに1時間ほど話が盛り上がった。その中でテーマとして上がったのが、谷崎潤一郎と太宰治の2人についてであった。

まず、太宰の話。
すこぶる盛り上がる。
次に、谷崎の話。
2人は盛り上がっているが、全く会話に入る気が起きない。
読んだことがないわけではない。
ただ、本当に作品が好きではないのである。

この2人の間に、どのような違いがあるのだろうか?
なんなら、川端康成や三島由紀夫といった、その時代を彩った文学者たちの作品もあまり好きではない。

何が僕の読む気を無くしているのだろうか?

3欠していた授業の欠席数を1伸ばすことを決意した僕は、今日1日使ってその原因を探ってみた。
ちなみに16時前まで寝ていたことと今日の欠席は関係ないはずである。

読み比べて感じた明確な違いは、主語の大きさである。
川端康成をはじめとする人たちの小説の主語は、主人公に主義主張や価値観などが多分に含まれる。
そのため、主人公という目に見えそうな主語が、想像もできないほど大きくなっているのである。

次に、太宰治の小説。
主人公の風貌などの描写が驚くほど少なく、心情だけをつらつら書き綴っている描写が多い。
また、その他の登場人物たちの主語が、川端たちの作品のような主義主張の含まれた非常に大きなものとなっているため、主人公の主語が対比も相まって、ものすごく小さなものに見えるのだ。
このように、主語の大きさの違いという決定的な違いが、両者の間にはある。(気がする)

主語に主義主張が含まれてしまうと、必然的にその主義主張を理解していなければ主人公について読み取りづらくなる。
結果として、小説全体に共感しにくくなっているのである。

一方で、主語が小さければ小さいほど、主人公について読み取りやすくなるため、小説全体の理解は容易くなる。
小説の始まり方からも、この要素が感じられる。
分かりやすいのは、「走れメロス」と「人間失格」。
「メロスは激怒した」
「恥の多い生涯を送ってきました」
この一文で、ぐっと主人公の世界観に引き込まれるのだ。
村上春樹なんかも、こっちの部類の達人だと思う。

太宰治の特徴として、主人公の心情の変化を喜怒哀楽の「喜」と「楽」をほとんど抜いて1冊の小説にすることが挙げられる。
もちろん、「怒」と「哀」が大半を占めるために物語自体はすごく重いし、女々しさまで感じる。
ただ、太宰治の凄いところは、嫌悪感を読者に与えつつも結局読み切らせてしまうテクニックである。
マイナスな感情をメインにひたすら書き連ねているため、普通の小説であればうんざりしてしまう。
しかし、心情描写のテンポが良すぎるために、ずんずん小説の世界に足を踏み入れ続けてしまう。
気がついたら読み終わり。
どよーんとした余韻に浸る。
戦後期の太宰治の小説は、これの繰り返しである。

散々太宰治の作品を褒めてきたが、僕は嫌いな川端康成とかの作品も読んでみたい。
ただ、これらを読むには前述したように、その時代の主義主張や社会観念自体を理解する必要がある。
「国語」と「社会」ってさすが文系の括りになってるだけあるなあとしみじみ思った。

[1/29の動き]
10時過ぎに目覚めるも3限まで時間があることを確認し、目を瞑る。
次に目を覚ますと16時前、3限と4限の出席が不可能になったことを悟る。
冷蔵庫が空のため、具なしパスタを頬張る。
読書。
noteを書いて寝る準備。

期限の迫るレポートやテストたち。

僕は激怒した。
恥の多い1日を送ってきました。

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