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魂に刻んで来た宿命を 思い出す~宿命として読み解かれた「言葉」をどう扱い 自分自身の「言葉」として立ててゆくか?

今や「占い」と称されるものが
多くの人たちに 認知される時代になって来ました。

血液型占いから 星占いタロット占いや四柱推命、オラクルカード、天星術なるものや 携帯の番号の下四桁で分かること…などなど…この世の中には そういった類いのものが 溢る時代です。

何故 「占い」と称される、中でも生年月日から導かれる「宿命を表す“言葉”」を 人は知ろうとするのでしょう?

「言葉」は時に 人をコントロールするように感じられる 瞬間がある

「言葉」にコントロールされてしまう様に感じ、故意にタロットカードを封印したり、「占い」と言われるものに触れないように 安易に信じないようにして来た若い頃があります。

「私」の役割は 人生を振り返った時 改めて どんなことに「私」は取り組んで来たのかが分かる

ある程度 この人生を歩んで来て「私の役割とはこの人生でどんな傾向があるのだろう」と振り返り自分が繰り返し執り行ってきたことを 観察してみると、「私」の性質に合った 特質や役割は 西洋占星術など 生年月日から 読み解かれた私が自覚出来る性質と類似したものを見つけることが出来ます。

「私」の役割とは ある程度 決まっていて この世に生を受けたのだと 分かる時が来る、だから 侮れない

西洋占星術など読み解いていると 「私」の特質をよく表している、と感じ、生まれた日時と場所には 深遠な意味が潜んでいるのかもしれないと感じられる様になって来ました。

そして 西洋占星術に限らず 生年月日から導き出される その類のものは 言葉を変え 見方を変え 似た「言葉」になっていることが分かったりします。

要は
そういうものは  侮れない
…ということです。

けれど 一方で
そういったものを 人はどう扱ってゆけば良いのか…という点において、都度 それを扱う人達は
考えて行く必要があります。

「言葉」は 指し示すものであるけれど それを盲信してはいけない …  

自分の人生を主導するのは誰なのか?「外側からの“言葉”」なのか、「自分自身の本意からの“言葉”」なのか

前述した通り

そこに表される 生年月日などをもとに読み解く「言葉」を 信じ過ぎない。

これは 経験が浅かったりすると 読み解かれた「言葉」そのものに 受け手の意志が 奪われてしまうような事態が 生じてしまうことがあります。

「言葉」の呪術に掛かると どういう状況に陥るのか

言葉の呪術に嵌らない。呪術に掛かってしまうとその言葉の世界に封じ込められ 自らの選択権を放棄する様な事態に陥ることもある。

「言葉」によって 自分が自分を封じ込めてしまう事態を生むことがある

要は
「言葉」によって創られる「世界」から抜け出せなくなるような、自分で自分を封じ込めてしまうような事態を避ける

自分を失くすようにその「言葉」に頼り過ぎず、翻弄されてしまうような状況には陥らない。

それらの言葉は あなたの人生で あなたを置き去りにして 決定的な「あなたを支配する言葉」とは成らない、と 予め分かっていること。

全ての「答え」はそもそも自分自身が知っている

あくまで 自分の人生での 選択や決断は 自分の真意では 分かっている、…と知ること。

そして 逆に 疑い過ぎない。

「言葉」が目の前に現れた時点で 何らかのメッセージを伝えるものもあります。受け取ったものをどう扱うのか…です。

「言葉」は 時にバラバラになっているものを繋げる役目がある

それらの言葉から 自分が持っている「断片的な知識とか知恵、情報、経験から得られたものとしての バラバラだった“点”」が 「線」となり バラバラに散らばっていたものが具体的に意味あるものとして繋がって 大きな視野を得ることが出来たり、知恵となって 自分自身が 自分の隠された本意とか真意といったことを知ることに繋がり 「私」へと知らせ気付かせてくれる手助けとなっていたりします。

どんな環境や状況にあったとしても けして諦めず、前向きに 歩み続けるために

自分の人生 今歩んでいる状態を 誰かのせいだったり 外側のなにかのせいにすることは出来ません。

何らかの「言葉」を受け取ったとしても自分の人生の道で選択しその道を歩んでゆくのは「私自身」です。

「私」の人生は「私」のものであって 誰かのものでは無いと知ること。だから 「私」の人生には「私自身」の責任が生まれます。

自分の人生では 自分の責任において
人生の道を選択し 今という時を歩んでいるのだと覚悟を決め、改めて自分の人生、どんな環境や状況にあったとしても けして諦めず、前向きに 歩み続けて欲しい…と 切に願う。

これからの人生を予測できる「言葉」に出会ったとしても 盲信せず 自分自身の本意とか 真意に沿った 選択をする

人は 例えば
この先を予測出来たとすると
どういった選択をするのでしょうか…

前述した通り、外側に在る 「なにか」が 「私の人生」を決めることは出来ません。なにか 「言葉」に出会ったとしても 盲信せず 自分自身の本意とか 真意に沿った 選択をする。

人生には 良い時もあり 負荷が多く苦難だと感じられる時が波のように訪れることが誰にしもあります。

人によって特質に違いが出る、ということは 強化される性質に違いがある、ということも分かる。

その性質を身に付けるためには どうしても
その性質を纏うための環境が必要になって来ることになります。

避けたいようなネガティブに見える環境とか状態によって 人の特質が強化されることが必然に生じている。

予め全てのことには前向きな意図が隠されているのだと分かっていたとしたら…

要は 時間と共に様々なことが移り変わり 時間と共に自分にとって苦痛に感じる状況が流れて来て その状態に陥ることになっても、それが その時には傷付くような経験であっても 全てのことには意味があって 確かに 「私」にとって 意味のある状態が 与えられているのだ、と 予め分かっていると、

それらが 苦痛だったり 悲しみだったりしても いづれ そういうものが 本当に自分に与えたかった意味とか真意が 感じられる時が 誰にしもあるのだ…と 気を病む必要が無くなってきます。

時間は留め無く流れ 全ては変化し続けている

時間は止めどなく 常に流れていて……

一点、その時、その瞬間に居る時には「分からないこと」が 「私」にあったとしても、それがいつか その人にとって 「宝物の様な意味ある言葉」として あなたがそれを知り なにかがあなたの心に舞い降りるように分かって来る時が きっと誰にしも訪れる時が来ます。

……だから

時間の中に流れて来る真理というのはその人の意識が居る場所によって如何様にも受け取り方が変わりうるものです。

一つの「言葉」や状態さえ 人によって見え方は違うし だから その先にどうしてゆきたいのか…も都度変わっていて それで良い。

……「言葉」を恐れることはありません。
「外側に在るなにか」に操られてしまう、
と怯える必要もない。

「ネガティブに見えるもの」も恐れる必要は無くて「ネガティブに、見えるものこそ、宝物が隠されている」と 分かっている……と 面白がって「今」を楽しめるようになるでしょう。

ものごとを広く大きな意識を持って眺めて観ると

…そうやって物事を広く大きく観ていると
時に悲しみや苦しみに襲われる事があっても それらが 姿かたちを変えて 「私」の目の前に「光のように私を照らすもの」となって現れる時がやって来ます。

絶え間ない 変化の中を生きる私たちは「私自身」が 常に「今」を決め 更に 決め直す事も出来る

「私の人生」は「私のもの」であって 誰のものでもありません。

「私」が 目の前に時間と共に流れてくるものを
どう観て どう捉え どう今に活かすか……

それは
「私自身」が 常に「今」決め、決め直す事もしてゆけるものだから……



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