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奈良クラブを100倍楽しむ方法#017 第18節対アスルクラロ沼津 ”Both Side Now"

 大学の頃は本ばかり読んでいた。今から思えば、読書は体力勝負だ。20代のころと同じよう運動できないのと同じように、20代の頃のように読書を積み重ねることはできない。今から思えば結構な読書量だったと思うが、当時の自分としてはそこまで特筆すべきものだとは思っていなかった。その時に仕入れた知識は今でも結構役に立っているので、できるときにできることをするというのは大事なことなのだと思う。
 学生時代は特に哲学書が好きで、現代思想の解説本や原著を読んでいたが、難解すぎて意味不明だったものベスト3のなかに入るのがジル・ドゥールーズによる『差異と反復』である。ドゥールーズといえば、現代思想を代表する思想家であり、これを研究しようと思うと必ず通らねばならない壁だ。ただし、その双璧とも言えるジャック・デリダの思想が「脱構築」というキャッチーなフレーズで「わかったような気になれる」ことに対し、彼の思想は「非常に難解だ」とされ、とっつきにくい。「リゾーム」だとか「ツリー」という彼独特の表現には物事の奥行きを感じるが、正確な理解ができたとはいつも言い難い近寄りにくさを感じる。
 『差異と反復』も、最初に読んだときは、一言で言うと何を書いているのかさっぱりわからなかった。何度も挫折しながらも、とりあえず文字だけは追っていこうという読み方で「どうにか読み終えた」という感じである。理解した、なんてとうてい言えない。とはいえ、その後に解説本などをいくつか読み、こうして奈良クラブを定点観測気味に毎週記録していると、この著作の意味が少しではあるが見えてきた。少し展開してみよう。
 ひとつのフットボールクラブを応援し続けるというのは、言うなればジャズ・スタンダードの名曲をひたすら聞き続けるようなものである。ジャズに馴染みがない人には、お気に入りのアーティストの「いつものあの曲」と言い換えてもよい。メロディラインはフォーメーションだ。皆が知っているメロディを、演者はその人なりのアレンジを入れながら演奏する。アレンジしすぎると原曲の良さが損なわれるし、かといって忠実すぎると凡庸な印象になる。僕たちは「いつものあの曲」を聴くためにライブに行くが、それは「いつものあの曲」が「今日はどんな演奏になるのか」という微妙な違い(差異)を楽しみにいくわけだ。そこにはかつて素晴らしい演奏を聴いたり、奇跡のようなライブ体験があったり、その曲への個人的な思い入れがあるはずである。ライブで「いつものあの曲」のイントロが流れたときの「そうそう、これが聞きたかったんだよ」という心の底からぐわーっと来るような感覚は最高だ。そこでまた素晴らしい演奏があったときには、僕たちは熱狂するし、逆パターンの「ああ、この展開はあかんやつや」という時にはいつも以上に落胆することもある。あれはあれて、なかなか辛い。
 でも、その両方に通じるのは「この曲(クラブ)はこんな感じ」という個人的、あるいは共同幻想的なイメージが存在するということである。僕たちはある種のパターンの繰り返しと「いつもとは違う何か」の両方に期待をしてフットボールを観戦している。時々「違いを生み出す」という表現をされる選手こともあるが、なにが「違い(差異)」なのかを浮き彫りにするためには「いつもはこういう感じ(反復)」という基準がないとわからない。僕がここで記録している奈良クラブのフットボールに関する部分は、奈良クラブの「いつもはこういう感じです」という反復の部分になる。フォーメーションやシステムの議論が好きな人は、おおよそこの「いつもはこういう感じです」というものを確認することに快感を感じるタイプだ。
 かなり変わっているかもしれないが、こういうフットボールクラブ的な反復を発見することは、何ものにも変え難い京楽がある。今ドイツではヨーロッパ選手権が開催中だが「やっぱりドイツはこうでなくては」とか「イングラインドらしいなあ」というのは、フォーメーションやメンバーが多少変わっても、その国らしさというのが依然としてあり、そのぶつかり合いが国際マッチの醍醐味だからである。ある種の反復が明確に出て、両者の噛み合わせが名勝負の要件を整わせるのだ。いつもと同じ展開でも見る方は満足することもあるし、それを超える何かが現れたときの興奮といったら無い。
 そう、フットボールの楽しみ方とは、ある種の「見たことがあるもの」が目の前でもう一度再現されるところを見ることと、「見たことがあるもの」を超える何かが目の前で現前化されるところを目撃することなのだ。それが良い時には熱狂はさらに加速するが、悪い時には誰のせいにもできないやるせなさを感じる。良いところも悪いところも全部ひっくるめて「推しチーム」なので、そこは受け入れていくしかないと思っている。
 また、ドゥールーズに言わせれば「差異こそが本性」ということらしい。「いつもの感じ」からふっと湧き出るいつもとは違う何かこそが、実はクラブや選手のアイデンティティであるということかもしれない。そして、その「差異」の表出を繰り返しながら、クラブは成長を続けていくのだ。


試合前の展望

 試合前の展望は上のスレッドにまとめた。アスルクラロ沼津は縦に速い攻撃が持ち味のチームだ。この攻撃にまともに付き合うと、ボールは前へ後ろへと忙しく動き回り、その隙をついた沼津の攻撃の餌食になってしまうのは見え見えの展開だった。まずはこれを避けるために、試合のテンポをできるだけ落とすこと、相手に気持ちよくプレーさせない時間をたくさんつくることが重要になる。そうすると奈良クラブの攻撃力も相殺されるのだが、これは仕方ない。後半相手がじれて出てきたところをカウンターではめて先制し、そのまま逃げ切るのが奈良クラブのベストな展開だ。しかし、先制をされてしまうと、前に出ざるを得ないので、沼津の攻撃が一番生きてしまう後ろの大きなスペースを産んでしまう。そうなると複数失点は免れない。これがワーストのパターン。結果的にワーストのパターンに完全に嵌った形での敗戦だった。0−3。完敗である。前日のポストでは点差まで当ててしまっているのだが、悪い方の予想は当たってもあまり嬉しくはない。
 ただし、これは結果論だ。奈良クラブのやろうとしていたことは間違ってはいなかった。特に都並選手のプレーはこの試合の現実をよく理解して、それを徹底しようとすることが見て取れた。ボールを奪うと前へではなく、バックパスで時間を作る。むやみにオーバーラップせずに、スペースを埋めるランニング。ひたすらゲームを落ち着かせることを意識したプレーだった。おそらく、前半と後半失点するまでの内容は、見ている人にはあまり面白くない感じだっただろう。ロマンチズムなフットボールを志向する奈良クラブにおいては、かなり現実的なプランを遂行しようとし、失点まではかなり順調だった。正直、「勝つならこの流れだな」と最初に思い描いた展開そのものだったので、相手がじれてくれば勝てると踏んでいた。奈良クラブが勝負に出て前がかりになったところを逆にカウンターで仕留められたが、攻勢に出るならあのタイミングしかなかった。結果的に点差はついたが、勝敗は紙一重のところではあった。奈良クラブとして勝ちにこだわった戦術だったことは僕にはよく伝わった。

悪くても引き分けなければ…

 とはいえ、この戦術を採用するなら勝つことが必定だった。このプランにはおそらく天皇杯での鹿島戦が伏線にある。あの試合も奈良クラブはボールの保持を最初から諦め、ゴール前を徹底して固める作戦に出た。しかし、いや、それでも、勝つことはできなかった。天皇杯では「相手はJ1だから」というエクスキューズができたが、沼津は同じカテゴリーだ。だとすると、この試合は、この戦術を取るならば、悪くても引き分けて終わらなければならなかった。引いて守るまでは良いとして、この試合の特に後半において、どのように点を取るというプランがあったのかがいまいち見えなかった。田村選手を入れて両サイドにドリブルができる選手を配置し、そこから攻めようという意図は感じたのだが、あまりにも百田選手が孤立しすぎていてフィニッシュにいく前のところで攻撃が終わっていた。あの壁を破ってシュートを打っていかないと、この戦術での試合は絶対に勝てない。そこまでの攻めの展開はどこまで用意できていたのだろう。個人技頼みでは打開することは難しい。澤田選手のヘディングも惜しかったが、もっと惜しい場面を作っていかないと相手のペースを崩すことができないのだ。ゲーム全体でもパスにお見合いをしてしまったり、軽率なパスミスをするシーンも見られた。確かに沼津は強い相手ではあったが、勝てない相手でもなかった。この悔しさはホームでの試合で晴らすことにしよう。
 ギラヴァンツ北九州はJ1の新潟を相手に守るのではなく攻めるという選択をして、壮絶な試合を繰り広げた。PKで負けてはしまったが、自分たちのフットボールへの手応えも感じて帰ってきたはずだ。その差が前節で出たのかもしれない。奈良クラブは鹿島戦、勝ちにこだわった結果勝てなかった。あの試合、もし前にでていればどうだっただろう。おそらく惨敗を喫しただろう。それでも攻めるべきだったのだろうか。ルヴァンの広島戦でのような敗戦を喫したあとでも、なにか得るものはあったのだろうか。簡単にはいかない問題だ。
 間違いなく次のホーム2連戦が今シーズンの山場になる。相手がどうとかではない。勝つことだ。勝った上で示すことだ。奈良クラブがどういうクラブなのか、奈良クラブらしさとはなにか、この2連戦は僕もスタジアムにいく。全力で応援しようではないか。

「現実的になり、不可能なことを求めるのだ!」

人生を両側から見てきました
勝者の側と敗者の側から
でもどういうわけか
思い起こすのは人生の幻想
私は人生のことなんか全然わからないのです

joni Michell " Both Side Now"

 "Both Side Now"はジョニ・ミッチェルの代表曲でもあり、数々のアーティストにもカバーされた名曲である。邦題は「青春の光と影」。ただし、歌詞に忠実に訳すならば「人生の光と影」と言うべきだろう。この楽曲のサビは「あらゆるものの両方から見てきたが、人生とはわからないものだ」と歌い上げる。とても美しい曲だ。
 奈良クラブの奏でる曲は美しいメロディラインと、その端々に見られる繊細なテクニックが特徴だ。僕たちはこれが好きで奈良クラブを応援している。地元だからという理由と同じくらい、奈良クラブのフットボールが魅力的だから、というファンも多いはずだ。
 ここ数試合は、そんな美しいメロディを封印してまで、無骨で強度の高いフットボールで勝ちをもぎ取ろうとした。結果は失敗だったけど、もしかすると、必要なのはこうした野心というかエゴイスティックな勝利への渇望なのかもしれない。奈良クラブはどちらかというとおとなしいチームだった。とはいえ、ここ数試合は相手選手に激昂したり、審判に詰め寄ったりと、感情を露わにするシーンをよく見る。今日も都並選手は相手選手とバチバチとやりあっていた。鈴木選手も、相手のファールには一目散にかけより、仲間を守るように抗議をしている。これは「差異」だ。今日も負けはしたが、最後まで1点を取ろうとしていた。試合を投げていなかった。選手は戦うことをやめてはいなかった。ならば、応援することをやめてはいけない。
 こと日本においては「現実的になれ」というのは、しばしばある種の「諦めを受け入れろ」という意味として使われる。しかし、それは「現実的」という態度のある面でしかないと思う。「現実的」というのは、自分たちのできることを最大限にすることだ、というふうに僕は理解している。何ができてなにができないのかを見極め、どうするかを考えることこそ「現実的」である。決して何かを諦めることではない。だから、現実的になることと理想を追い求めることは両立する。というか、両立しなければおかしいのだ。
 奈良クラブは自分たちの力が最大限発揮できる方法を模索し、それが今の形なのだから、それを徹底的に見せつけてほしい。それが勝利への一番の近道になるはずだ。これからの戦いで見せる奈良クラブの「差異」が、これからの奈良クラブの姿になる。あくまで理想を追い求めたうえで、勝つことにこだわってほしい。勝利という反復でしか、築き上げられないものがある。かのキューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの言葉を借りて今節のレビューを終わろう。

「現実的になり、不可能なことを求めるのだ!」

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