青木孝平『「他者」の倫理学 レヴィナス, 親鸞, そして, 宇野弘蔵を読む』を読む

こんにちは. ヘッドホンです. さて今回は, 題名にあげた本について簡単に紹介してみようと思う. というのも, 私がよく読んでいる著作の著者の一人に, 宇野弘蔵という日本のマルクス経済学者がいて, その人の経済哲学を倫理的に解明しようとする意図が, この本には垣間見えるからである.

1 目次

目次は以下の通りです.

まえがき

はじめに

第I部 現象学における他者

第1章 フッサールにおける独我論の哲学

 1 西洋的二元論の哲学を超えて

 2 超越論的主観性の現象学

 3 フッサールにおける他我の明証

 4 身体的存在としての他者

第2章 レヴィナスにおける他者論

 1 ハイデガーの存在論的現象学

 2 レヴィナスによるハイデガー批判

 3 絶対的他者の顕現

 4 「顔」としての他者

 5 「存在の彼方」における他者

 6 隔時性あるいは痕跡としての他者

 7 他者の「身代わり」としての自己

第3章 レヴィナスの正義論という可能性と不可能性

 1 「第三者」としての他者

 2 正義論というディレンマ

 まとめ 現象学の臨界点

第Ⅱ部 仏教における他者

第1章 自己の悟りとしての仏教

 1 仏教の開祖とその発展

 2 南都六宗の仏教

 3 平安仏教としての天台・真言宗

第2章 「他者」による救済としての仏教

 1 平安末期における末法の到来

 2 法然による他力思想の形成

 3 法然における「本願念仏行」の選択

 4 他力のなかに残る自力

第3章 「他者」による絶対他力の思想

 1 親鸞における他力思想の確立

 2 『教行信証』における絶対他力

 3 晩年における親鸞の境位

 まとめ

第Ⅲ部 資本主義における他者

第1章 マルクスにおける主体の自己運動

 1 疎外論における他者の不在

 2 『資本論』における主体としての人間労働

 3 マルクスの論理における「自己」中心主義

第2章 宇野『経済原論』における他者の思想

 1 「流通論」における他なるもの

 2 「生産論」における他なるもの

 3 「分配論」における他なるもの

 4 市民社会というイデオロギー

第3章 宇野『経済政策論』における他者の顕在化

 1 段階論という外部

 2 三大階級に対する他者

第4章 絶対他者を主体とする現状分析

 1 段階論の終わり方

 2 絶対他者の消滅とその痕跡

 おわりに

あとがき

『「他者」の倫理学』の目次は, 以上です.

2 まえがき, 及び, はじめに, の解説

青木は「本書はタイトルこそ「他者の倫理学」であるが, そのサブタイトルには, レヴィナス, 親鸞, 宇野弘蔵といういっけん何の脈絡のないような名前がならんでいる」(3ページ)と述べ, この著作が, どのジャンルに分類されるかがいまいちわからないばかりか, どのジャンルに分類されたとしても, どこか浮いた存在として扱われるだろうことを予見する.

レヴィナスといえば現象学, もっといえば哲学の分類に含まれ, 親鸞といえば, 仏教, もっといえば宗教学の分類に含まれ, 宇野弘蔵といえば, 経済学, もっといえば社会科学の分類に含まれる, ということが穏当なところであろう. ところがこの著作はこれらをクロスオーバーしていることになる. どうして青木はこのようなクロスオーバー, あるいは「トランスクリティーク」(柄谷行人の著作の名前としても有名である)を為そうとしたのだろうか.

「本書は, レヴィナス, 親鸞と宇野弘蔵という思想の出所も思考の形成過程もまったく異なるものをクロスオーバーさせることで, 形而上学的観念論と弁証法的唯物論との障壁をいったん解体し, 自我を根源的に相対化しうる「他者」を主体とする思想, すなわち語の厳密な意味での倫理的思考へと向かうことをめざしている. 誤解を恐れずにいえば, 現象学の外部にあるレヴィナス, 仏教を異化する親鸞をつうじて, マルクス経済学を否定する宇野弘蔵を再発見する試みであるということになろうか. 彼らの思想のなかに, 徹底した「他者」中心の倫理学を見いだそうという企てであるといってもよいだろう」(5ページ)

この引用では二つの点が指摘されている. 一点目は, レヴィナス, 親鸞, 宇野弘蔵という三者にはともに「他者」を意識した思想が存在することを発見しているという点である. 二点目は, 青木はレヴィナス, 親鸞を用いて, 宇野弘蔵の倫理学を何よりも明らかにしようとする点である. 宇野弘蔵は何よりもマルクスの姿勢に忠実であったと言える. マルクスは『資本論』を何度も改訂しているのだから, その姿勢に倣って『資本論』の改訂も, 論理的に必要であればどんどん行うべきであるという姿勢を取ったのが宇野弘蔵である.

従って, この記事では, 何よりも青木が重要視している, 宇野弘蔵を, マルクスとの対比において, 青木の言葉によって語ってみることにしたいと思う.

「マルクスにとって「人間」なるものは, ヘーゲルにおいてそれが絶対精神の運動に操られる観念的存在であったのと同様に, 物質的生産の運動内部から一歩もはみ出すことのない「労働」の具現者であった. したがって資本主義は, 人間労働の生産力の自己発展にともなって社会の「内部」から自動的に崩壊を遂げることになり, 資本主義の「外部」から法則そのものを意識的に廃絶し資本主義を意図的に変革する能動的「他者」は, いっさい登場する余地はなかったのである. すなわち, ヘーゲルを逆立ちさせたマルクスにおいて, 経済学は普遍的歴史理論であり, 人間のイデオロギー的実践はいわゆる上部構造として, 物質的経済的土台の変化に規定された受動的・従属的・消極的な位置にとどまった. それゆえマルクス主義における「理論と実践の弁証法的統一」なるものは, 実質的には, 理論による実践への支配に帰結する以外になかったのである」(15ページ)

この引用においては, マルクスの人間の把握方法が, 資本主義の内部においての把握方法であるために, 資本主義を根本的に相対化しうる「他者」の存在を見落としたか軽視したか, という指摘がなされている. そして, いわゆるマルクス主義が現実においてはソ連や中国という形で現実となり, この現実は, 理論による実践への支配, つまり, 理論に従わないものは殺戮する, というものとして理解されているのである.

一方, 青木は宇野弘蔵の姿勢として次のようなことを述べている.

「宇野は, マルクスの『資本論』にみられる労働の生産力の発展によって資本主義が生成・発展・死滅するという弁証法を否定し, 独自に, 商品経済としての流通が人間の労働=生産を包摂するという想定にもとづいて, 純粋資本主義と名づけた認識モデルをつくりあげた. 一般に「原理論」と呼ばれる認識論である. したがって宇野原理論はマルクスと異なり, 人間の労働が主体ではなく, あくまでもそれを「外部」から包む商品経済の方が主語である. それは, 市場メカニズムが「あたかも永遠に繰り返すかのごとくに」運動する循環の論理学であり, それゆえ, その「内部」に包摂された労働者をはじめとするあらゆる人間は, 商品経済的な自由・自立・自存の「自我」を基調とした小ブルジョア・イデオロギーに囚われ, そこから一歩も脱け出せないことになる」(16ページ)

宇野の姿勢はマルクスとは反対に見える. つまり, マルクスは資本主義の内部にいる人間を主体的な変革者として捉えることで, 資本主義を革命的に変革しようとしたのに対し, 宇野はあくまでそのような人間を主体とせず, 彼らを巻き込む商品経済の方を主語にしたのである. しかしこれは, マルクスの姿勢そのものに反対したということにはならないと, 青木は次のようにして説明する.

「逆説的なロジックとしてではあるが, 宇野は, 資本主義の理論的認識の範囲を厳格に限定することによって, 理論に従属せず理論から独立した実践的イデオロギーの可能性を徹底的に擁護していた. いいかえれば, 資本主義内部の「自我」に対して, 「絶対的に他なるもの」としての「他者」の存在意義を原理的に明証したともいいうるであろう」(17ページ)

マルクスは資本主義の生成・発展・消滅を, その全てを必然性として理解した(と青木は理解している)からこそ, 資本主義の外部に立つことはついにできなかったのである. そしてそれは資本主義を外から変えることはできないことを意味しており, それは, マルクス本人の思想とマルクス主義とは異なるとはいえ, ある程度は, ソ連崩壊などの歴史的事象によって, 明らかにされていると思われる.

青木はさらに宇野の倫理を次のように説明する.

「そのうえで, 原理論と区別された「段階論」と呼ばれる領域が構成される. そこにおいては, 資本主義の「外部」すなわち「他者」としての非市場的な存在者が類型的・明示的に導入される. いいかえればそれは, 「自己」に対して「他なるもの」の認識論的なコンフリクトが初めて現出するステージであるといってもよいだろう. そして最後の「現状分析」の領域では, 資本主義的な人間の意識(自我)よりもむしろ, その外部にある「絶対的に他なるもの」が積極的で能動的な役割を果たすこととなる. それゆえ現状分析は, 唯物史観はおろか資本論さえも妥当しない「単一の社会科学 Social Science」を構成するのであり, それはまさに思想的には, 「他者」の側を主体として資本主義的な「人間(自己)」というイデオロギーを批判し, その根源的で全面的な変革の可能性を照射することになるのである」(17ページ)

宇野弘蔵は, 三段階論なる認識枠組み, つまり原理論, 段階論, 現状分析という認識枠組みを提唱し, 具体的には, 大体においてマルクスの『資本論』における資本の論理に従う『経済原論』をかき, 大体においてレーニンの『帝国主義論』の論理に従う『経済政策論』をかき, そして, 経済学の究極としての目標である現状分析という話を展開した人である.

3 弁証法神学による宇野弘蔵とマルクスの対比?

青木による宇野弘蔵の倫理学の分析は, この著作ではレヴィナスや親鸞を通して行われているわけであるが, 私としてはむしろ, 私がプロテスタント神学の弁証法神学を学んでいることから, まさしく, 弁証法神学との比較においてこそ, 宇野弘蔵とマルクスの姿勢の違いを明らかにできるものと考えている. もちろんこれは私の思案なだけであって, これを明確に論じるだけの準備は持ってないわけであるが, 将来的に書くことになるかもしれない.

青木による, レヴィナス, 親鸞の倫理分析に基づく宇野弘蔵の倫理分析は, 実に面白いように私には思われるのである. ご興味あらば, 是非読んでみてほしい. 自らの住む世界を真に知るためには, 他者の存在が必要なのである, ということを思い出させてくれるという意味でも傑作であると私には思われるのである/

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