日常とは? そして古典ラテン語と古典ギリシア語

1 日常とは?

「日常」とは何のことだろう?何も変哲もなく, 何の注目価値のない事象のことか. あるいは何も考えずにただ感じ取った事象のことか. 要するに「日常」とは言及されることを必要としない事象のことなのか. 仮にそうだとするならば, 「日常」についてどうして私以外の他者に知らせようとする動機が存在するのだろうか. そもそも他者に知らせようとすると言う意味においてそれはすでに「言及されている」事象であるのだから, 少なくとも「日常は言及されることを必要としない事柄である」と言う命題は偽であると言うことができるように思われる.

あるいは「日常」と言う言葉の語義に立ち返ってみよう. 「日常」とは常日頃という意味であり, 常日頃とは毎日頻繁に起こっていることと言う意味で解することは, そこまで問題ないように思われる. であるならば, 「日常」を記述したくば, 毎日頻繁に起こっていること, 英語で言えば `routine' についてを記述する必要があるように思われる. ところが「日常」を表現しようとして書かれたもののほとんどは決して 'routine' には分類されない事柄の記述に終始しているので, やはり「日常」としてそのようなことを記述することは許されないように思われる.

仮にその当人にとっては日常のことなので, 頻繁に書かなくても良いではないか, と考えるのであれば, そのような考えこそが「日常」ではないのである. なぜなら「頻繁には書かなくて良い」と言う意味においてすでに「日常」以上の価値が込められているからである. 一度書いてしまったことはそれを中断することも「日常」としては語義違反なのである. 要するに「一度書いたことを書かない」と言うことがすでに, 常日頃という意味での「日常」とは異なっているものだからである.

そもそも論として, 人は出来事を「日常」として捉えることは可能なのか?答えはもちろんNOである. 何となればすなわち, 人が出来事を認識する際には, すでに価値が入り込んでしまうからである. と言うよりも認識することその自体に, その認識主体の価値基準が投影されてしまっているからである. ちなみに「価値がない」と言う判断も立派な価値判断なのであるから, あらゆる認識は全て何らかの価値判断に基づいていると言わざるをえないのである. 俗にこの事は「人は見たいようにしか見ない」と言う言葉に端的に表現されているように思われる. 「日常」と言う言葉を「何の変哲も無い事」と解釈する事自体が立派な価値判断なのであるから, それはもはや何の変哲も無いばかりか, とてつもなく重要な意味を有しているのである. すなわち「何も変哲も無い事」と言う意味を立派に有しているのである.

更に「日常」を「変化のない事」として捉える見解についても私は考察してみよう. なるほどこの解釈は一見すると問題ないように思われる. なぜなら「日常」に起きることがそこまで大きな変化であるはずがないと言う観念はそれなりに威力があるからだ. だが私はこの観念に疑問を持つ人間である. なぜなら「無変化」も「変化がない」と言う変化であり, しかも言葉の厳密な意味において「変化」しないものは存在しないのである.

換言すれば「万物は流転する」のである. しばしば人は「変わらぬ日常」と言う言葉を発するが, この言葉は二重の意味で「日常」と言う言葉を「変化のないこと」として理解していることを許さないはずである. 第一には先に述べたとおり「万物は流転する」からであり, 第二には「変わらぬ」と言う限定用法を用いたと言う事は「日常」のなかに「変わらぬ日常」と「変わる日常」とが少なくとも存在するはずであるからだ. 換言すれば「変わらぬ日常」と言う言葉は「変わる日常」と言う概念があるからこそ成立する概念なのであるから, 「日常」を「変化のないこと」として理解する事は不可能なのである.

2 古典ラテン語と古典ギリシア語

ところで最近の私はラテン語の学習に特別の楽しみを覚えており, その楽しみが乗じて, ラテン語の文法を習っている先生(堀尾耕一先生のことである)が持たれているギリシャ語の購読の授業の見学をさせていただく, と言うイベントが3日前に発生したのである. そのギリシャ語講読の授業には, 学生だけでなく教授も教わる立場として参加されていたのだが, 学生はその全てが来年度は別の環境に移動することになっており, 特に学生の一人は来年度も堀尾先生の講読授業が展開されるか否かを心配し, 私を半ば強引に「来年度のラテン語ないしギリシャ語講読の授業履修生」にすえようとしたくらいであった. 無論私は来年度において少なくともラテン語の講読の授業を履修しようと思っていたし, 問題はないのであるが, その勧誘の熱意を通り越しているような程度の強引さには若干びっくりしたものである.

その学生はおそらく博士課程の人なのであろうが, 博士課程の人間はすべからく個性的であるな, と思ってしまったほどである. ちなみにギリシャ語の講読授業において堀尾先生が「ゆくゆくはギリシャ語の勉強もやることになるでしょう」と私に対し発言されていたので, 私はきっとギリシャ語の勉強も行うことになるのだろう. そしてひいてはラテン語とギリシャ語の両方について勉強を続けていることになるのだろう. きっとその勉強は一生涯続くような予感がしているが, その予感は私にとっては喜ばしい予感であるので, きっと問題ないだろう.

大体において「経済学研究科」に所属している人間が何故古典語の代表選手であるラテン語の学習を行っており, ひいてはギリシャ語の勉強も始めようとしているのかといえば, それは私にもよくわからないのであるが, 大月康弘教授と堀尾耕一先生の影響が非常に大きいことだけは確かであろう. 確かに世界の特に西欧圏のエリートはことごとくラテン語はできるし, ラテン語ができるだけでは優秀であるとはみなされなく, ギリシャ語もできることでようやく優秀であると認められるような世界に住んでいるのであるから, 私のこのような態度も世界的に見れば, 別段におかしいものではないように思われる.

父親からは「本業の経済学の研究も進んでいるのかね?」と心配されてしまった私なのであるが, 本業というものはいわば勝手にその環境にいれば必然的に行うものであるから, 別段大きな心配はしていないのである. と言うよりも私は「ひとつだけのことに没頭する」ことが不可能である人間であると, 私は自己認識しているので「本業と副業」とは両方行わないと, 私と言う人間は私を許さないのである. 端的に言えば私はいろいろなことに興味があるのである. 逆に言えば一つのことだけに興味を持つことが極端に苦手なのである.

ラテン語の影響とギリシャ語の影響は, 英語や中国語やスペイン語などの影響とは比べようもなく大きいのである. なぜなら端的に言えばラテン語とギリシャ語はほとんど全ての「文化」の親だからである. その影響の大きさについて私が語ることは私の力量不足なので行えないのであるが, もはや語るまでもないくらい明らかであろう. このように言うと「私はヨーロッパ主義である」と言う風に思い, もっと「文化相互主義」的考えもすべきであると私に言ってくる人がいるかもしれないが, その人にはこのよう言おう.

すなわち「文化相互主義と言う考え方そのものがヨーロッパ主義あるいは帝国中心主義から誘発されたものなのですよ」と. 要するに「特殊に価値を置くならばまずは普遍に価値をおけ」と言いたいのである. 自分が特殊であるなどとは思い上がるなと言いたいのである. それが証拠に日本語は中国語から多分に影響を受けているし, フランス語やドイツ語やロシア路や英語などは多分にラテン語やギリシャ語の影響を受けているのである.

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