普通...それはつまらない

1 変わり者って良いよね

私はどうも, 世間からすれば変わっている人間らしい. なぜそのように判断したかと言えば, それは私の取り巻く環境における大半の人が, 私を変わっていると評価したからである. だが, 私は次のように申し上げたいのである. すなわち「私が変わっていると評価するのであれば, それと同程度だけあなたも変わっているのである. なぜなら私とあなたは同じ人間なのだから」と.

私は世間で言うところの「普通」に対して, 全くと言っていいほど価値を見出さないが, それでも私は「普通」を知りたいと思っている. なぜならそれを怠れば, 私は単なる怠け者になってしまうからであるし, 「普通」を批判するなら「普通」の内在的論理を吟味する必要があるからである. されど私は真に申し上げたい. それは私は私のことを変わっていると真に信じてはいないし, 自分は極めて「普通」の人間であると思っているのである, と.

このような言動をすること自体がどうも世間から見たところの「普通」とはズレているような気配が感じられなくもないが, そんなものは全くどうでも良い. 大体において「普通」なものにどのような特別な価値が存在すると言うのか. 価値がないから「普通」と言うのではないか. 「特別」であるからこそ価値がある, と言う表現を用いるのではないのか...とするならば「普通」に安住している人間は「自分は価値がない人間である」と言うことを積極的に表明していることになるのではないか!

2 甘いものは正義

ところで, 私は甘いものが大好きである. それは単純な理由ではあるのだが, 思考を鋭利に行う際には必ず必要なものであるからであり, 更に言えば私は甘いものが好きだからである. ここで注意すべきことがある. それは私は私の行動を説明する際にトートロジーを用いてしまったと言うことである. これはすなわち, 人間の行動原理における究極的要因はトートロジー以外を用いることによっては説明不可能である, ようするにトートロジーが究極的原因である, と言うことである.

トートロジーは何も語ってはいないので, そうだとするならば私は私が甘いものが好きな理由を全く語っていないことになる. だがそれはそれで一向に構わない. 私は単に私が甘いものが好きである, と言う意思表示をここで行いたいから行なったに過ぎないのだから. なぜそのような意思表示を行いたくなったかと言えば, それは私には明後日の日曜日に, 高校の委員会(執行委員会)の同期である女性と, シフォンケーキを食べる約束を取り付けたからである. なぜにそのような約束を取り付けたかと言えば, それは彼女が望んだからであり, 私が望んだからである.

その同期は人と会うことを目標にしているらしく, 私も詳しいことは知らないのだが, その目標達成は大いに有益であると思ったので, 私はその彼女と会うことにしたのである. ここでもまた, 私の交友関係において積極的に登場する人間は, 異性である女性である, と言うことが明らかにされてしまったのである. その理由としては私の投稿を具に読んでいる方ならお分かりだと思うが, 女性は私にとっての「他者」である, と言う理由を挙げることができる.

同性たる男性と会うこともそれはそれで楽しいのであるが, そんなことは究極的には自分一人で可能である. なぜなら同性たる男性は, 異性たる女性に比べて「他者」ではないからだ, 換言すれば同性たる男性は, 私の想像の範疇を超えた行動を滅多にしないと言う意味で「他者」ではないからである. 何れにせよ, 私は明後日会うことになっている私の高校の同期, それも異性の同期との語らいを, 私の好きな甘いものにカテゴライズされるシフォンケーキを食べながら, 全力で楽しむとしよう!

3 書くとは思考すること

今日の投稿は本来であれば, 非常に気楽な気持ちで描こうとして行われるはずなのであったが, いざ書き始めてみると気楽な気持ちで書くことがどれだけ私にとっては無理難題なことであるかが, 具にわかってきた. すなわち, 私にとって「書く」ことは「思考する」ことなのであり, 「思考する」ことは「自分の全存在を賭けている」ことなのである. ようするに書くことは生きることなのだ.

私は自分の言いたいことのほとんど全てを書き切れたはいないし, おそらく一生をかけても自分の言いたいことの大半であっても書き切ることは不可能なのだろう, と言うことくらいは容易に想像できるし, その想像はきっと正しいものである, と言う仮説を立てることくらいは私にもできる. だからと言って, 私は「書く」ことを止めることはできないのである. なぜならば私は「他者」から「書け」と命令されているからである. 決して私は自発的に書こうとなどはしていないのである.

私の行動の一切は私の与り知らぬところに置いて決定されているのである. くれぐれも自分の行動は自分が全て決めているなどと言う, あまりにも馬鹿げていて言及することさえ恥ずかしくなるようなことを, 本気で信じている方がいたとしたら, 私はその方に最大限の敬意を払わなければならないだろう. 無論, そんな考えをする人間が本当に人間であるのならば, 全く存在しないに決まっているのであるが...

え?自分の行動は自分が決めているですって?!噓を吐け嘘を!そんなことはあるわけないのである. そんなことの虚偽はほんの少し考えれば, 人間であれば誰の目にも明らかなのである. ここで私は繰り返して言う. すなわち, 人間は自分の行動を自分が決めるなどと言うことはしないしできないのであって, 自分の行動の原因は「他者」にしか起因しないのである.

4 資本主義は宗教である

あ, そう言えば私は「資本主義は宗教である」なんて述べていましたが, 皆様におかれましてはきっと私より何倍も聡明であられるでしょうから, この命題の論証は不要でしょう. なぜなら「資本主義」を支える「貨幣」の宗教性に注目すれば, 誰が見ても当然の帰結となるからだ. ただしこれは近代においてはカール・マルクスが『資本論』において述べていることの繰り返しに過ぎないので, 「資本主義は宗教である」と言う命題の真偽を確かめたい方は, 是非とも『資本論』を通読して欲しいと思う.

されどいきなり『資本論』をすべて読むことは極めて難しいので, 入門書として私は, 伊藤誠『『資本論』を読む』(講談社学術文庫, 2006年)をお勧めしておく. とは言ってもこの入門書も極めて内容が濃いと言う意味において難解であることは否めないのであるが...しかし少なくとも, 分量においてはこの入門書の方が『資本論』そのものより少ない, と言うことだけはここで保証したく思う.

あるいは別の入門書としては, 熊野純彦『マルクス 資本論の思考』(せりか書房, 2013年)または同『マルクス 資本論の哲学』(岩波新書, 2018年)を挙げておく. この2冊は, 日本において間違いなく第1級の哲学者である熊野純彦氏が書き上げたものであり, 少なくとも一定の信頼は置ける書物となっているように私には思われるのである.

今日はこのくらいにしておきたいと思う. なぜなら理由がわからないのだが, 今日の私はひどく疲れているからである. したがって私は私を休ませたいと思うので, ここで失礼させていただきたく思う. では今日の日はさようなら!

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