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サリンジャーはどう読まれるか、サリンジャーをどう読むか。


【その13】


「ぼくも進級していくような気がするが、ただ方向がみんなと違うようだって、そう言うの。最初に一つ進級すると、袖に金筋がつく代わりに、袖をもぎ取られることになるだろうって。そうして将軍になるころには、素っ裸になっちゃって、お臍に小ちゃな歩兵バッジがくっついてるだけで、あとはなんにもないんじゃないかって」

J.D.サリンジャー
『ナイン・ストーリーズ』
訳者 野崎孝
新潮社 昭和49年 53頁 『コネティカットのひょこひょこおじさん』




厭世的な作家がえがく、厭世的な登場人物たちの物語。


サリンジャーの小説は、その良さを全く理解できないという人たちがいる一方で、ある種の人たちを強烈に惹きつける。

それは、これ以上ないほどにすり減った心を癒す特効薬なのか、あるいは痛々しいほどに血が滲みでる傷口を容赦なくこじ開ける劇薬なのか。


ジョン・レノンを撃った人物がその事件を起こした後、警察官が来るまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたという。

アメリカでは幾度も、子供に読ませるべきではないという理由で『ライ麦畑』が問題視されている。
そういった声を上げる人たちにとって、ホールデンを心の友にするような人間は健全ではなく、親が理想とするような我が子ではないのだろう。

この類いの問題は、正解もなければ決着もない。





カポーティはサリンジャーのことを「あいつはただタイプを叩いているだけだ」と酷評した。

これはあながち間違いではない。
サリンジャーはタイプを叩いていただけだ。

しかし彼は、人間に備え付けられたフィルターというフィルターを外してタイプを叩くことができた。
だからそうして出来上がった物語は、彼自身の心が痛いほどに反映されており、眩しい。


結局は、正直さが最も人の心を打つ。
そういうことだと思う。



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