母に死ねと言われた。
何度目だろうか。母に対して「お前もお前で毒親だ」と思うのは。暴力を振るう父を悪者とし何度も兄と母と僕とで悪口を言って凌いできた。けれども所詮は機能不全家庭。母が感情的に僕に怒れば間に入る第三者などなく理屈が曲がっていても、言葉にできない不服感があっても母が正しいとされてきた。だからこそ「母も母で毒親」なのだ。そして父というより悪い比較対象がいるから「自分はまだマシである」という歪な正当性が母の中に生まれ、それが自分もまた毒親なのだという認知を妨げている。だから軽度とは言え鬱である息子に「死んだらいいとしか言えない」という言葉が出るのだろう。
タイトルの発言に至るには自分や鬱と薬の服用を経た思考について、まず書かないといけない。
ここ数日は鬱の薬を飲み始めたことで以前よりも少し頭が回るようになった気がしている。とはいえ咄嗟の判断や急な対応はまだまだ苦手ではあるが、それでも以前よりは今日1日で何をするか、来週誰とどこに行こうかなど予定を立てたり、連絡をしたりということができるようになってきた。ただ頭が回ることでよくない発想も浮かびやすくなってしまい、例えば(別に会う予定などないとわかっているのに)前の職場の上司や同僚に出会ったら馬鹿にされるのではないか、もし馬鹿にされたらどのようにしてやろうか、口で応戦してやろうかもしくはいっそ手を出してやろうか、もしそうなったら警察を呼ばれては困るからまず最初に相手のスマホを破壊しなければならない。と言った具合に妄想に妄想を重ねあるはずがない出来事をまるであるかのように空想しそれに伴って苛立ちや恨みが層のように積み重なっていってしまう。それでなくともデザイナーとして(学生時代を含め)5年半真面目に昼夜休日問わず頑張ったのになにもままならず恋人も失ったことでかなりの徒労感を負っている。この妄想による苛立ちと現実の徒労感の狭間でもう何をしても無駄なのではないか。頑張ることに意味などなく自分は誰にも受け入れられず、誰からも受け入れられないのではないか、という思いに至ったこととそうであれば生きていることに意味があるのかということを母に話した。
そして少しの沈黙の後、母からでた言葉が「そう言われても、じゃあ死んだらいいやんとしか言えんなぁ」だった。
確かに気の病んだ人間を相手にするのは面倒だろうし、母は母で気を遣って接してくれていると感じる。けれども言っていいことと悪いことがあるんじゃないのか。そして上記の一言は悪いことの中でも極めつけに悪いひと言なのではないのか。など問い詰めたいことはたくさんあるのだけれどこちらが一言言おうものなら「こっちがどれだけ気を遣ってやってるかわかるか!?」「どれだけ考えているか!?自分で考えたことあるのか!?」と甲高い声で返されるのは目に見えている。だから何も言わない。そういう気持ちに寄り添うことを母に求めた自分が悪いのだ。そういう自分を産んだことに納得のいかない両親から生まれた自分が悪いのだ。上手くいかないのは自分がいけないのだ。だからもう少し生きてそれでもどうしようもないままならなさと、やるせなさが広がるだけなら母も父も自分も全て燃やそうと思う。死ぬのは怖い。痛いのは嫌だ。けれどどうせなら巻き込んでやりたい。
先に謝っておきます。
兄へ、たくさん迷惑をかけることになるかもしれない。ごめんなさい。全部僕が悪いのだと思う。だから別に許してもらわなくてもいい。もはやすべてどうでもいい。
弟。
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