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Nothing last forever

所謂K‐POPのオタクになって10年くらい経った。BTSのこともSEVENTEENのこともこんなに長年好きなら死ぬまで好きなんじゃないのと思う。

でも最近はなんとなくぼんやりと「このままだんだんオタクじゃなくなっていきそ~」と思っている。好きじゃなくなるということじゃない。だいたいKPOPでいうオタクってなんなんだと思うけど、そうやってその定義について考えることもダルいなと思うとこに来ている。このぼんやり考えていることは、別になんら悪くないし、特に大事でもないなら書き記す必要もない。自分の人生の中で色々起きる変化のうちのひとつにすぎないから驚きもない。

ただ以前みたいに、自分や自分の生活と密接なもので、私を強く支えてくれるものではなくなりつつあるのが少し寂しいなと感じる。私にとっては、引っ付いては離れていく人との縁よりも長いものが、色褪せの兆しを見せるのは、誰かとの別れよりも少し戸惑う。ホームにしていたツイッターのオタクアカウントからも少しずつ離れ、自ら新たに他のファンと繋がりを持つこともしなくなった。四六時中頭の中を占領されることもないし、情緒を不安定に揺さぶられることもない。静かに好きな人たちの軌跡を追い見守り「私の青春は今日も生きている」と確認する。いや、確認しない日もある。

BTSやSEVENTEENはもはや私の人生の一部で、ARMYかつCARATでいることは私のアイデンティティみたいなものになっているから、そこはちょっとやそっとでは変わらないしこれからも変わらないと思う。私の10代の全て、多感な思春期を全て共にしてくれた彼らを、母や兄弟のように感じる。過去の生活、様々な感情と記憶、苦しみも幸せも、全て彼らの曲と軌跡に結びついている。今はもう思春期でもないし私の10代は終わってしまったから、彼らに(彼らに限らず他人に)激な感情を沸き立たせることこそ減ったけど、濾過した後の濃い想いだけが、香水のラストノートみたいに優しく控えめに残る。

流行りを追うことは得意なので、KPOPの行く末は生きてる間ずっと見ていくつもりだし、染みついたものだから考えずともそうなるだろうと思う。ただ、私が年齢的に青春を過ごした、私にとっての最盛期(第3世代)のKPOPに燃やした心は10代と共に帰ってこない。

これからはより一層生活の一部として溶け込んだものになる。いつかは棚の奥から久しぶりに引っ張り出したものを見て「ああ、こんなとこにいたのか」と思うようなものになる。私を強く支えていた太い幹が、他の音楽や映画、本、私の心に触れる色々なものたちと共に、私を軽く支えてくれる細い枝になっていく。生きているものだけじゃなく生を終えたものにも心の鱗片を預けることも増えそう。そんな気がする。

付け加えるなら、もちろんのことながら、私を形作るものはARMYでいることやCARATでいることだけじゃない。私の一日はBTSやSEVENTEENを見なくても、例えば知らざれるココ・シャネルの生涯を記した本を読んだり、ドクターフーのシーズン2を一気見してデイヴィッド・テナントに恋したり、新しい音楽を探すと言ってクイーンの曲を聴いたり、聖書を読んで反出生主義の思考の鱗片を抱き出して戸惑ったり、そうしても成り立つことができる。むしろ最近は彼らを見ることの方が少ない。

いちいち立ち止まっていた子供の時とは違い、今日の私は泣いても喜んでも生活が進んでいく。立ち止まれる余地は十分にあるけれど、私の生活はもはや猶予が何年もある児童のものじゃない。すぐに社会の歯車のひとつにされる日が来る体の大きい半大人のものだから。その時にもう一度深みに沈む時が来たら、また大好きな彼らに激な私をやわらげてもらおう。そうして最後まで繰り返したい。私も私の大事なものも、色褪せて形も思い出せない時に永遠を断ち切ろう。そしてそんな考えが私を切なくさせる。

言ったように、特に大事として捉えているわけじゃない。むしろこれが必然的なこととも思っている。何事にも永遠はないから。終わりが見えそうにない今にだけ永遠を見いだせる。でも今の私には終わりの顔が見えている。それでも、彼らが最後まで彼らでいてくれたら、そこには永遠があったと言えるかもしれない。それを確認するために、私は最後まで彼らと一緒にいようと思う。いつが最後かは分からなくても。

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